今川家の人質から、戦国時代を勝ち抜いて江戸幕府を開府した徳川家康について以下のような疑問を学習する記事。
- 徳川家康は何をした人?
- なぜ「たぬきオヤジ」と呼ばれるの?
- 徳川家康は本当はどんな人?
徳川家康の情報
時代 | 安土桃山時代・江戸時代 |
身分 | 三河守護大名、征夷大将軍 |
出身地 | 愛知 |
別名 | たぬきおやじ |
生没年 | 1547年~1616年 |
時代背景
室町幕府衰退から戦国時代のはじまりについてはこちらの記事をどうぞ
東海・近畿地方の変遷
戦国時代の東海・近畿地方の変遷についてはこちらの記事をどうぞ
徳川家康のすごさ
今川家の人質から織田信長と同盟へ
幼少期は松平元康という名前で、今川家の人質として過ごす。今川義元が信長との桶狭間の戦いで敗れるまで、元康は今川家の人質という扱いだった。その後、名前を徳川家康と改め、尾張で力をつけていた信長と清州同盟を結び、以降信長が本能寺の変で自刃するまで、同盟は続いた。
徳川家康の人生についてまとめた記事はこちら。
信長の登場から本能寺の変までについての記事はこちら
豊臣秀吉の家臣のトップ5に
本能寺の変で信長が急死した後は、豊臣秀吉の家臣となり、家臣のトップ5となる五大老にのぼりつめた。
秀吉の天下人までの解説記事はこちら
態度を変えて味方を増やす
家康は秀吉から「息子の秀頼を頼む」とお願いされるが、秀吉が死ぬとコロリと態度をかえ、有力な大名たちと親戚になって徳川家の見方を増やしていった。
石田三成との衝突(関ヶ原の戦い)
豊臣家をないがしろにしている家康に怒ったのが石田三成。三成は挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いがはじまった。
石田三成の解説記事はこちら
根回しで大逆転
関ヶ原の戦いは最初、三成側が有利だったが、家康が根回しをして小早川秀秋を寝返らせたことで大逆転し、見事に家康が勝利した。
天下人として征夷大将軍へ
新しい天下人となった家康は、天皇から征夷大将軍の位をもらい、江戸幕府を開いた。すると今度は豊臣家の存在が邪魔になってくる。
豊臣家へのいちゃもん
豊臣家を何とかしようとした家康は、秀頼がお寺に奉納した鐘に書かれた文字「国家安康」(国が平和でありますように)に目を付ける。家康の字が真っ二つに割れていると言いがかりをつけて豊臣家に戦を仕掛けた。
豊臣家の滅亡(大坂の陣)
こうして戦になったのが大坂の陣(冬・夏)で、味方の少ない豊臣家はやられっぱなしで秀頼は母の茶々とともに大坂城で自害し、豊臣家は滅亡した。
豊臣家の滅亡への流れについての記事はこちら。
平和な江戸時代へ
このように手のひら返すように時代を勝ち抜いていったことから、人をだます妖怪のようだという意味で「たぬきオヤジ」と呼ばれるようになった。そのおかげで邪魔者はしっかり消し去られている江戸時代はとても平和な時代になった。
徳川家康ってじつは・・・
武田信玄に苦戦
織田信長が15代将軍・足利義昭と対立していたとき、織田家と同盟を組んでいた徳川家康も、ともに戦うことになった。不運にも家康は「三方ヶ原の戦い」で義昭に味方する武田信玄と戦うことになってしまった。29才の家康に対して、戦国最強の武田軍の対立なので家康はまったく歯が立たず、1000人以上の死傷者を出し、自分の身代わりとなる部下が次々と死んでいくのを横目に必死で逃亡した。
ビビりすぎてうんこを漏らす
武田軍が怖すぎるあまり、家康は逃亡中にうんこを漏らしてしまった。ようやく浜松城に帰ってきたとき、家康のよごれたおしりを見た家臣に対して「これは、クソではなく腰につけていた非常食のミソだ」とごまかしたらしい。
教訓としてたくましく生きる
家康はこの時の情けない顔と変なポーズをした肖像画を描かせていた。(上の図)あえて残すことで恥ずかしい経験をバネにしていこうと考えたのかもしれない。また、「よごれが目立たないように、白じゃなく黄色のふんどしを使うといい」と家臣たちにアドバイスするほどだった。うんこを漏らしたことを教訓にするたくましい天下人だった。
あとがき
この徳川家康の人物像を踏まえて大河ドラマを見ると面白いかもしれない。
偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。