9代将軍・徳川家重、10代将軍・徳川家治に仕えて改革を行った田沼意次
だが、その認知度は正直いって低い。
田沼意次はだれ? 何をしたのか? と聞かれると、私はでてこない・・・
そこで、今回の内容はこちら
- 田沼意次とは?
- 田沼意次が行った改革とは?
- 田沼意次の政治は「賄賂政治」?
年表
いつ | できごと |
---|---|
1745年 | 徳川家重が9代将軍に就任。8代将軍・吉宗は隠居する |
1760年 | 家重が将軍職を辞職し、10代将軍に徳川家治が就任。 |
1772年 | 田沼意次が老中に就任し、幕政の改革を進める |
1774年 | 杉田玄白らが翻訳した「解体新書」が刊行される |
1782年 | 天明の飢餓が起こり、米や農作物の不作が続く |
1783年 | 浅間山が大噴火を起こし、飢餓に追い打ちをかける |
1786年 | 10代・家治が死去。改革が失敗に終り、田沼意次が失脚 |
田沼意次とは?
田沼意次の父は紀州藩の足軽の生まれ。
家柄としては低いほうだったが、そのころは鳴かず飛ばずだった徳川吉宗に仕えていたことが幸いし、吉宗の将軍就任に伴って幕府旗本となった。
子の意次も、その跡をつぎ、9代将軍・家重 (いえしげ)、10代将軍・家治 (いえはる)に重用されて、出世街道をのぼり、1767年ついに家治の側用人 (そばようにん)となり、1772年には老中となった。
田沼意次が行った改革
米に頼らない商業政策
米による税収に行き詰ったため、商人から積極的に税を徴収した。
また、東西で使うお金が分かれたため、統一貨幣「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)を導入し、
商売がしやすいように制度を整えた。
貿易で収入を得る
鎖国政策下で、密貿易が横行していた。
しかし、意次は規制を強めるのではなく、あえて緩和をして幕府も貿易に関わるようになった。
また、各地の特産品を売って、金銀の海外流出も抑えていた。
新田開発の推進
商業だけに力を入れるのではなく、人々の主食である米の確保も計画した。
商人たちの財を使って、新田開発を考えるなど、商業一辺倒ではなかった。
田沼意次の政治は「賄賂政治」?
貨幣価値の安定化
意次は貨幣の価値を安定させ、お金で経済を回そうとした。
しかし、役人や商人から賄賂をもらったり、鎖国政策下にも関わらず貿易を推奨したため反発も起こった。
近代的な経済感覚をもつ政治家
意次の政治は「賄賂政治」といわれているが、それで私腹を肥やしていたわけではない。
貨幣経済を確立させるための手段の一つに過ぎない。
10代・家治の死後、意次は老中を罷免され蟄居の身となるが、現代に近い経済感覚を持った政治家といえる。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 紀州藩の足軽だった父は、吉宗の将軍就任に伴って幕府旗本となり、田沼意次もその後を継ぎ幕府旗本として仕え、その後9代将軍・家重 、10代将軍・家治に重用されて、老中となった。
- 田沼意次は、米に頼らない商業政策として、商人から税の徴収、統一貨幣「南鐐二朱銀」を導入した。また、鎖国政策下でも貿易を行うことで収入を確保、商人たちの財を使った新田開発も行った。
- 田沼意次の政治は、「賄賂政治」と言われているが、私腹を肥やしたわけではく、貨幣経済確立の手段のとして行っていた。近代の経済感覚を持った政治家。
ではまた、ごきげんよう。