たくさんの有名な俳句で知られる松尾芭蕉。
その松尾芭蕉が「どのように生まれでどうやって俳句を学んだのか」、「なぜ日本中を旅する俳句人になったのか」が気になる。
また、武将好きなことが知られており、「松尾芭蕉の推しの武将」についても気になる。
そこで、今回の内容はこちら
- 松尾芭蕉の生まれ
- 松尾芭蕉はどうやって俳句を学んだのか
- 松尾芭蕉はなぜ日本中を旅した?
- 松尾芭蕉の推しの武将は義仲
春日局の情報
時代 | 江戸時代 |
身分 | 俳諧師 |
出身地 | 三重 |
別名 | 俳聖 |
生没年 | 1644年~1694年 |
松尾芭蕉の生まれと俳句への道
伊賀(三重県)生まれ
松尾芭蕉は、伊賀(三重県)のまずしい農民の家で6人兄弟の次男としてうまれた。
松尾芭蕉は、1644年に松尾与左衛門の次男として現在の三重県伊賀市に生まれた。
(兄1人、姉1人、妹3人の6人兄弟)
幼名は「金作」で、「藤七郎」、「忠右衛門」、「甚七郎」などと名乗った。
本名は松尾忠右衛門宗房(むねふさ)。
俳句を学び先生に
京都で俳句の先生に弟子入りして腕を磨き、俳句の本場・江戸で俳句の先生になった。
俳号は、最初は宗房(そうぼう)、後に桃青(とうせい)。
芭蕉という俳号は庵号(芭蕉庵)に由来するもので、日常的にはよく使用していた。
松尾芭蕉はなぜ日本中を旅した?
俳句界への絶望
江戸で俳句の先生として活動していた当時、俳句の出来は点数で競われていた。(点取俳諧)
いい点が欲しくて先生に賄賂を送る弟子が続出し、俳句の世界は乱れていた状況だった。
そんな状況に「こんな腐った世界は嫌だ」と絶望した松尾芭蕉は、町はずれのボロ小屋に住み、ひとりで俳句を作り始めた。
小屋の火事で旅を決意
住んでいたボロ小屋が、火事で燃えてしまい、むなしくなった芭蕉は旅にでることを決意。
江戸(東京)から尾張(愛知)まで、約9か月の旅に出かけた。
旅の中でうまれた名作
旅の中で母の墓参りのために、地元に帰ったときに見つけた「わび」の境地。
千利休が茶の中で表現した「静かなさびしさのなかに美を感じる心」。
この旅の後によんだ句がこの名作。
古池や かわずとびこむ 水の音
(古い池に飛び込む カエルの水の音がひびいている)
松尾芭蕉の推しの武将は義仲
源氏武将の聖地巡礼
平和な江戸時代で育った芭蕉は、武将の戦物語に男のロマンを見ていたのか、特に源氏の武将を好んで、聖地巡礼をしていた。
奥州藤原氏の城のあとで一句
『奥の細道』の旅で岩手の奥州藤原氏の城のあとを訪れた際に、源義経が兄・源頼朝に追いつめられて自害した場所でよんだ有名な句がある。
夏草や 兵どもが 夢の跡
(今は夏草がおいしげる草むらだが、ここは武将たちの夢であふれた場所だった)
一番の推し 源義仲
芭蕉が一番好んだのは義経ではなく源義仲であった。
義仲は頼朝の命により、義経に殺された頼朝と義経のいとこ・義仲の「夢破れた英雄」の部分にとても「わび」を感じていた。
義仲への想いを込めた句がある。
義仲の 寝覚めの山か 月悲し
(義仲も夜中に目を覚まして、この山で月を見ていたかと思うと・・・)
また、芭蕉の義仲への想いは強く、芭蕉が死ぬ直前に「私を義仲の墓の隣に埋めてくれ!」と言い残し、推しの武将の隣で永遠の眠りについた。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 松尾芭蕉は、伊賀(三重県)のまずしい農民の家でうまれ、京都で俳句を学び、江戸で俳句の先生となった
- 松尾芭蕉は俳句界に嫌気がさして一人ボロ小屋で俳句をよんでいたが、その小屋も火事で燃えてむなしくなり旅に出た。
- 松尾芭蕉は源氏の武将を好み、特に源義仲に「わび」を感じ、芭蕉が死ぬ直前には義仲の墓の隣に埋めるように言うほど推していた
ではまた、ごきげんよう。