4艘の蒸気船を率いて日本に開国を迫ってきたアメリカ東インド艦隊の司令官・ペリー
そのペリーについて「そもそも何をしに来たのか」「日本はどのような対応をしたのか」「日本にどのような影響があったのか」が気になるので学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- ペリーは何をしに日本に来た?
- 日本はどのような対応をしたのか?
- 日本にどのような影響があったのか?
年表
いつ | できごと |
---|---|
1853年 | ペリー率いる4隻のアメリカ船が、浦賀に来航する |
1853年 | 12代将軍・家慶が死去。家定が13代将軍に就任 |
1854年 | ペリーが再来航。日米和親条約を締結し、下田と箱館が開港 |
1855年 | 安政の大地震で1万人以上が犠牲になった |
1856年 | アメリカ総領事ハリスが着任。吉田松陰が松下村塾を主宰 |
1858年 | 日米修好通商条約の調印。そのほか、諸外国とも条約を締結する |
1858年 | コレラが大流行し、黒船来航、地震も相まって世の中は混乱 |
ペリーは何をしに日本に来た?
1853年、ペリーはフィルモア大統領の国書を携えて日本に現れ、開国をせまった。
今までに見たことのない巨大な黒い蒸気船は、異国の脅威そのものとなった。
1854年、ペリーは再び来航し、日本との貿易をするため、日米和親条約を締結を申し出た。した。
また、1858年には日米修好通商条約を締結した。
日本はどのような対応をしたのか?
勅許をえられない状況
1854年、日米和親条約を締結、1858年には日米修好通商条約を締結。
条約の締結の勅許をえることはできなかったが、締結しなければアメリカと戦争になりかねない状況のなか、日本は締結せざるを得ない状況だった。
不平等条約の締結
外国人が日本国内で犯罪を犯しても、日本の法律で裁くことができないという治外法権。
また、外国からの商品を輸入する際に、自由に税金をかけられないようになっている不平等条約となっていた。
条約締結直後には、大量の金や銀が海外に流出する事態が起きた。
日本にどのような影響があったのか?
鎖国の終わりと混乱
条約締結とともに、日本の鎖国政策が終わり、港は開港され交易がはじまった。
また、江戸や大阪は開市され外国人が住むようになった。
しかし、来日した外国人によって持ち込まれたコレラが流行したり、安政の大地震が起こるなど、世の中は混乱した。
加熱する尊王攘夷運動
鎖国が解かれ、不平等条約が結ばれる中、国学者などの学者に師事する若者の間では、天皇を敬い、外国人や列強諸国を武力で日本から打ち払うという思想「尊王攘夷」が広まった。
尊王攘夷派の志士たちは、武力行使をするなど、過激な行動を繰り返すようになっていた。
まとめ
今回の内容をまとめると
- ペリーは黒い蒸気船で2度来航し、国書を携えて日本に開国をせまった。
- 日本の対応としては、不平等条約(日米和親条約、日米修好通商条約)を締結せざるを得なかった。
内容は、外国人犯罪を日本の法律で裁くことができない、また、外国からの商品を輸入する際に、自由に税金をかけられないというもの。 - 日本への影響は、鎖国が解かれ、外国人の居住や交易がはじまることでコレラが流行し、また安政の大地震も起こり混乱した。その中で、天皇を敬い、外国人や列強諸国を武力で日本から打ち払うという思想「尊王攘夷」が広まった。
ではまた、ごきげんよう。