・国王が全権を握る「絶対王政」のはじまり
・フランス王家とハプスブルク家が対立
・両家の対立が近世ヨーロッパの国際関係の基礎に
この絶対王政とハプスブルク家について、「絶対王政」、「近世ヨーロッパの王家」、「ハプスブルク家とブルボン家」、「プロイセン王国の誕生」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 絶対王政
- 近世ヨーロッパの王家
- ハプスブルク家とブルボン家
- プロイセン王国の誕生
年表
いつ | できごと |
---|---|
1521年 | カール5世とフランソワ1世がイタリア戦争をはじめる |
1588年 | アルマダ海戦。スペインの無敵艦隊がイギリスに負ける |
1618年 | 神聖ローマ帝国とフランスが対立し、三十年戦争勃発。 |
1701年 | プロイセン王国誕生 |
1740年 | マリア=テレジアが即位。オーストリア継承戦争勃発 |
1756年 | ハプスブルク家とブルボン家が同盟締結(外交革命) |
1756年~ | 七年戦争。オーストリアとプロイセンが対立 |
1770年 | ルイ16世とマリー=アントワネットが結婚する |
絶対王政
たがいにけん制しあい、戦争をくりかえしていたヨーロッパ諸国では、国境が意識されるようになり、国ごとに独立した政治体制が確立した。
国家としての結束力が強まった。
また、国王を中心に行政組織を整備して権力を集中させ、王が絶対的な権力を握る「絶対王政」が誕生した。
■ブルジョワ
戦争が大規模化・長期化するようになると、軍事費を徴収するための徴税体制や官僚制が整った。
しかし、貴族や聖職者たちは免税の特権を持っていたため、国王は経済活動に介入。
市民階級がうまれ、なかでも財を成した上中層の市民はブルジョワと呼ばれた。
近世ヨーロッパの王家
フランス王家を破ったスペインのハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝を世襲するようになり、ヨーロッパ王家の中心として全盛期を迎えた。
各国の有力王家では政略結婚のすえに王位継承問題が頻発。
戦争と妥協を繰り返した。
ハプスブルク家とブルボン家
ハプスブルク家とフランス王家はヨーロッパの覇権をめぐって敵対し続けた。
しかしハプスブルク家のマリア=テレジアは、台頭するプロイセンを孤立させるため宿敵フランス王家(ブルボン家)と同盟。(外交革命)
長年の敵対関係に終止符を打った。
プロイセン王国の誕生
十字軍遠征で結成されたドイツ騎士団が征服して建てた小国だったが、スペイン継承戦争でハプスブルク家を支援した見返りに王国へと昇格。
行財政の合理化や軍備の増強を行い、フリードリヒ2世を君主とした強国となった。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 戦争をくりかえしていたヨーロッパ諸国では、国境が意識され、独立した政治体制が確立した。国王を中心に行政組織を整備して権力を集中させ、王が絶対的な権力を握る「絶対王政」が誕生
- フランス王家を破ったスペインのハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝を世襲し、ヨーロッパ王家の中心として全盛期を迎えた。 各国の有力王家では政略結婚のすえに王位継承問題が頻発。
- ハプスブルク家とフランス王家(ブルボン家)はヨーロッパの覇権をめぐって敵対し続けたが、ハプスブルク家のマリア=テレジアは、台頭するプロイセンを孤立させるため宿敵フランス王家(ブルボン家)と同盟を結んだ。(外交革命)
- 十字軍遠征で結成されたドイツ騎士団が征服して建てた小国だったが、スペイン継承戦争でハプスブルク家を支援した見返りで王国へと昇格した。
ではまた、ごきげんよう。