どうした家康 徳川家康の人生と江戸幕府 楽しい日本史 -戦乱と泰平の世へ-

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江戸幕府の初代将軍 徳川家康が何をしたかを簡単に解説

  • 大河ドラマ「どうする家康」を見る前におさらいしたい
  • 徳川家康って何をしたの?
  • 何がすごかったの?
  • 徳川家康の年表をみたい
  • 徳川家康の最後は?

家康 年表

いつできごと
1542年三河の松平広忠の子として徳川家康がうまれる
1549年~60年今川家の人質として過ごす
1562年信長と清洲同盟を結び、天下統一政策に協力する
1582年秀吉の家臣として過ごす
1598年秀吉政権の五大老に任命される。同年に秀吉が死去
1600年関ヶ原の戦いが起こる。石田三成ら、西軍を破り勝利。
1603年征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府する。
1614年方広寺の鐘銘をきっかけに徳川家と豊臣家が対立
大坂冬の陣
1615年前年の大坂冬の陣に続き、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす。
1616年将軍職を秀忠に譲り、駿府城に移っていた家康が死去

今川家の人質時代

最初は松平元康

幼少期は松平元康という名前で、今川家の人質として過ごす。今川義元が信長との桶狭間の戦いで敗れるまで、元康は今川家の人質という扱いだった。

信長との同盟

https://historivia.com/oda-nobunaga/5963/

徳川家康に改名

元康は、名前を徳川家康と改めた。尾張で力をつけていた信長と清州同盟を結び、以降信長が本能寺の変で自刃するまで、同盟は続いた。

秀吉の家臣へ

秀吉に敗れる

信長の死後、家康は秀吉と戦い、敗れてしまう。北条家の領土だった関東の統治を任された家康は、秀吉の家臣としてふるまい、下剋上の機会をうかがった。

江戸幕府の開府

関ヶ原の戦いに勝利

秀吉の死後の1600年、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府した。

将軍職を退く

幕府開府の2年後には征夷大将軍を息子の秀忠に譲り、自身は大御所として幕府の運営に関わり続けた。しかし、前政権である豊臣家は秀吉の嫡男・秀頼を当主として存続していた。家康は豊臣家を滅亡させることで江戸幕府の安泰を図っていった。

豊臣家滅亡までの流れ

1614年 方広寺の鐘銘問題

豊臣家と協調を選んだ家康は、その証として亡き秀吉の遺志を継ぎ、方広寺の大仏建造の再開を提案する。秀頼もこれに賛成し、家康も各地の大名に対して費用の負担を促すなど協力的で、工事は順調に進められていった。大仏だけでなく大きな釣鐘となる梵鐘(ぼんしょう)も造ることになったが、この梵鐘が事件の引き金となる。1614年、完成した梵鐘に彫られた銘文を見て家康が激怒した。これが方広寺鐘銘事件。
梵鐘には「国家安康」と「君臣豊楽」の文字が刻まれていて、激怒の原因は文字の意味ではなく並びで、「国家安康」では”家康”の文字が離れていて、「君臣豊楽」では”豊臣”の文字がつながっているから。
家康はこれに対して自らを引き裂く呪いが込められていると強く主張して、怒りがおさまらず林羅山に解読を依頼した。
解読の結果、林羅山は家康の主張が正しいと断定し、徳川家に対する呪いが込められたものだとした。一方の豊臣家は完全な言いがかりだと反発、こうして徳川家と豊臣家は一触即発の対立関係となっていった。

片桐且元への疑い

方広寺鐘銘事件の後、大坂の陣に至るまでのいきさつ。方広寺鐘銘事件は豊臣家にとっては完全な言いがかり、そのため、亡き秀吉の側室・淀殿は事情を説明するために家康の元を訪れていた。この対応によって家康も一度は豊臣家を許した。しかし、この時の豊臣川の交渉役・片桐且元はまだ関係修復には至っていないと考え、秀頼と淀殿に対していくつかの条件を飲むよう意見した。
1、秀頼が江戸に住む
2、淀殿は人質として江戸に置く
3、秀頼が大坂城を退去
片桐且元の提案は豊臣家を激怒させると同時に、信頼を失い、豊臣家は片桐且元が徳川家と内通しているのではないかと疑うことになった。

1614年1月 大坂冬の陣

豊臣家から信頼を失った片桐且元は行き場所をなくし、家康を頼った。徳川家についた片桐且元は家康に大坂城の情報を全て漏らしたという。一方、豊臣家は、徳川家との内通が疑わしい片桐且元に対して刺客を送り込んだ。徳川家は自身の家来となった片桐且元を暗殺を計画している豊臣家に対して、これを戦いの意思表示と受け取り、徳川家は大坂の陣の宣戦布告をした。
豊臣家も大坂の陣が起こることを覚悟していて、真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛、長宗我部盛親などの浪人を取り込んで徳川家に対抗した。秀吉が残した遺産を費やして10万の兵力を整え、徳川家との決戦に挑んだ。
大阪冬の陣では、徳川家康は豊臣方に和睦を提示し、条件として大阪城の堀をすべて埋め立てることになってしまった。

1615年4月 大坂夏の陣

講和によって豊臣家との対立はおさまったが、家康の本心は豊臣家を滅ぼしたかった。そこで、家康は講和の条件を破っていると豊臣家に言いがかりをつけて講和を破棄した上で再び挙兵。これが大坂夏の陣の始まり。豊臣家にとって致命的だったのは大坂城の外堀を埋めてしまっていたことだった。そのため前回の戦いのような籠城戦は展開できず、徳川家の15万に対して豊臣家は5万、多勢に無勢なこの状況で戦わなければならなかった。豊臣家には勝ち目がなく、名のある浪人も次々と討たれた。大坂城は炎上して落城、秀頼と淀殿は自害、生き残った秀頼の息子も後日処刑されたことで豊臣家は完全に滅亡した。

江戸幕府の初期政策

一国一城令

城は戦いの拠点となるため、江戸幕府はむやみな城の建城を禁じた。また、すでに領内に複数の城がある場合は居城以外の城は破却させた。

武家諸法度

「武家諸法度」には、文武をたしなむようにといった心構えのほかに、参勤交代や城の修繕、婚姻の許可など、国内統制のための法律が記載された。

禁中並公家諸法度

朝廷の行動を規制し、武家のコントロール下に置くための「禁中並公家諸法度」。高僧だけが着れる紫衣の着用許可を、朝廷ではなく幕府が出すようになった。

あとがき

もともと松平家という三河の小豪族のうまれで今川家、織田家、武田家など力を持った大名家が周りにいるなかで、家康は織田信長と同盟を組み、力を蓄え、信長の死後は豊臣秀吉と天下人をめぐって争い、秀吉の家臣となりながらも天下人を狙い続ける。ついに天下をとり、江戸幕府を開府、豊臣家を滅亡させた。秀吉とはまた違う下剋上を成し遂げた。
その裏では家康の生涯を支えた徳川四天王の存在もあるので、大河ドラマが今から楽しみだ。

ではまた、ごきげんよう。

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