時代を変えた革命児 織田信長が何をしたかを簡単に解説
- 織田信長って何をしたの?
- なぜすごいと言われているの?
- 織田信長の最後は?
織田信長の登場についての解説記事はこちら
身分を問わない人材登用
それまでの家臣登用
大名家はうまれながらの武士の子で武士の身分の侍を家臣とするのが通例だった。
有能な若者を採用
信長は武士になることを希望する有望な農民の若者を積極的に家臣にしていった。武士になることを夢みて、仕官先を探していた若い農民にとって足軽として役割を与えてくれて給金をくれる信長は大切な主となった。
貨幣経済をつくった
楽市楽座
商人たちは公家や寺社など、特定の組織を元とする組合に加入して商売をしていた。信長は、楽市楽座によってそうしたくくりを取り払い、自由な商売を許可した。
商業の活発化
楽市楽座は信長だけの政策ではなかったが、特に織田領では商業が活発になり、貨幣を用いた品物のやり取りが増え、日本の貨幣経済の基盤となった。
城のスタイルを変えた
それまでの城
戦国の城は、櫓や居館を集めて土塁をめぐらした防衛拠点としての城だった。信長はこの城の姿や形を大きく変えた。
新しい城のスタイル
権力者の象徴として「天守(天主)」を考え出し、安土城を建築。人びとは石垣で囲まれた見たことのない巨大建築物に驚いた。大名たちは天守のある城を自分の領地に建てるようになり、日本の城は天守のある建物という認識に変わっていった。
鉄砲を用いた戦術
新しい戦法
それまでの戦は騎馬の武将が率いる武士団で刀や弓を用いるのが普通だった。信長は、馬の侵入を妨げる柵をつくり、鉄砲をうちまくるという戦法を用いた。この戦術の成果が現れたのが、武田家との間の長篠の戦い。武田家は織田軍の鉄砲隊を前に敗北した。
西洋文化を積極的に取り入れた
西洋人が日本へ
16世紀になると、西洋から宣教師や商人たちが日本に来るようになった。
詳しくは大航海時代についてやフランシスコ・ザビエルについての記事をみてほしい。
柔軟に知識を吸収
西洋の思想や美術品など、日本人にとって珍しいものが入ってきて、中には西洋文化を不信に思う人びともいたが、信長は積極的に西洋の文化を取り入れた。宣教師たちとも交流を深め、柔軟に知識をたくわえて天下統一を目指した。
あとがき
信長は従来の伝統や文化に縛られず、自分の考え方や感性に従って様々な改革を行い、後世に影響を与えた。好奇心旺盛で宣教師の持ち込んだ地球儀を見て、地球が丸いことを理解するほど、柔軟な思考を持った人物だった。権力ももちつつ、改革を推進できた信長は貴重な存在で、日本に影響を与えた人だと思う。
ではまた、ごきげんよう。