徳川歴代将軍の15人は誰?何をしたか わかりやすく解説 楽しい日本史 -戦乱と泰平の世へ-

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260余年にわたって続いた江戸時代。1603年の徳川家康から1868年の江戸幕府滅亡までの15代将軍の功績を簡単に解説

  • 徳川15代将軍は?
  • 徳川15代将軍は何をした?
  • 将軍家を支えた御三家・御三卿とは?
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江戸幕府260年を担った男たち

家康から260余年続く江戸時代

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開府。以降江戸時代は260余年にわたり続くことになった。

15人が歴任

将軍職は徳川家康の血を引く男性が担い、1868年に江戸幕府が滅亡するまでに15人の将軍が誕生した。「生類憐みの令」の5代・綱吉、中興の祖となった8代・吉宗、最後の将軍15代・慶喜など、よく知られている人物がいる一方で、8歳で早世した7代・家継や、障害があったと考えられている9代・家重など、さまざまな人物が将軍職を歴任している。

15人の江戸幕府将軍について

初代 徳川家康

わずか8歳で父が家臣に暗殺され、その後も織田・今川の人質になるなど、過酷な幼少期を過ごした。戦国時代を生き抜き、江戸幕府を開府。就任から2年で将軍職を秀忠に譲るが、その後も大御所として政治に関わった。

2代 徳川秀忠

家康の三男。元服の際に豊臣秀吉から一字もらい、秀忠と名乗るようになった。父の築いた江戸幕府の権威を確固たるものにしたのが秀忠。大名たちへの改易や転封を行い統制力を強めつつ、朝廷を抑え、幕府の支配体制を確立した。

3代 徳川家光

秀忠の次男。鎖国、農民統制、参勤交代の制度化など、家光の時代には江戸幕府の基礎となるさまざまな制度が確立していった。家光は病弱だったため、補佐をする家臣たちが登場するようになり、将軍が先頭に立たない幕府運営がはじまった。

4代 徳川家綱

家光の嫡男。病弱で、家臣主導による政治システムがすでに出来上がっていたこともあり、自身が表立って政治に関わることはほとんどなかった。家臣の意見に常にOKをだすことから、「左様せい様」というあだ名がつけられていたそう。

5代 徳川綱吉

家光の四男。大変な学問好きで、さまざまな学問を奨励し、元禄文化が花開く。一方で潔癖な政治を望んだため、「生類憐みの令」をはじめ理想と現実が大きくかけ離れた法令を発布し、庶民の間に混乱を呼んだ。

6代 徳川家宣

甲府藩主としての手腕を認められ、綱吉の養子となって将軍に就任。間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石(あらいはくせき)といった優秀な人材を登用し、家宣の治世は「正徳の治」といわれ評価されている。しかし、就任からわずか3年で流行病に倒れ、命をおとす。

7代 徳川家継

家宣の四男。父の急死にともない4歳で将軍となる。政治は父の代から仕えている間部・新井の両名が中心となって行った。しかし、8歳という年齢でこの世を去る。

8代 徳川吉宗

紀州徳川家を相続し、財政難にあった紀州藩を立て直し、手腕を評価され8代将軍に就任。吉宗は自らが先頭に立ち「享保の改革」に着手する。質素・倹約を掲げてさまざまな改革を行った。

9代 徳川家重

吉宗の嫡男。幼い頃から病弱で言語障害があった。将軍に就任したものの、吉宗のように自ら政治に乗り出すことはできず、大御所となった吉宗や幕僚たちが政治を支えた。

10代 徳川家治

家重の嫡男。家重の時代から仕えている田沼意次が、主に幕政を取り仕切り、新田開発や通貨政策が行われ、文化や芸術にも大きな発展があった。

11代 徳川家斉

一橋家出身。15歳で将軍となる。将軍の補佐は松平定信が行い、「寛政の改革」がなされた。家斉には側室が40人近くいて、55人のこどもが生まれたと言われている。

12代 徳川家慶

家斉の次男。45歳で将軍となり、水野忠邦による「天保の改革」が行われた。一方で、国内の情勢が次第に悪化し、欧米列強との外交問題が見え隠れするようになっていく。

13代 徳川家定

家慶の四男。病弱で身体に障害があったが、一方で学問好きだったといわれる。ペリー来航によって国内が混乱するなか、将軍継嗣問題が勃発。家定は井伊直弼に後を託して35歳で逝去した。

14代 徳川家茂

4歳で紀州藩主となり、13歳で将軍に就任。公武合体政策のために皇女・和宮を妻として迎える。実直な人物だったと伝わり、内政や外交の問題が積み上がるなか21歳で亡くなった。

15代 徳川慶喜

水戸藩主・徳川斉昭の子で一橋家当主。家茂と将軍職を争った。15代将軍に就任するも、国内の動乱を抑えきれず「大政奉還」を行い、260年続いた江戸幕府の歴史に終止符を打った。

将軍家を支えた御三家・御三卿

御三家

家康は江戸幕府の将軍は、初代将軍である自身の血を引く人物でなければならないと考えた。そこで、自分の子である義直に尾張藩、頼信に紀州藩、頼房に水戸藩を預け、この3つの家を御三家として確立。将軍家を継ぐ者がいなくなったときは、この3つの家から将軍を輩出するというシステムをつくった。

御三卿

やがて8代・吉宗の時代になり、御三家が血縁的にも将軍家と疎遠になってしまったとして、新たに一橋、田安、清水の3つの家がつくられた。これを御三卿といって、御三家と同じように将軍職を継ぐ権利を持ち、将軍家を支える役目を担った。

あとがき

家康の開いた江戸幕府だが、自身はわずか2年で将軍職を退いていたのが意外なのと、後継ぎを輩出する仕組みを設けていたのがすごい。これまでの幕府と比べ、15代で260年というすごい長い間政権を保った江戸幕府はよくできた仕組みだったと思う。

ではまた、ごきげんよう。

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