豊臣秀吉の死後わずか2年後の政権をめぐる西軍 石田三成と東軍 徳川家康の戦いを簡単に解説
- 関ヶ原の戦いとは?
- 戦いのながれは?
- 全国各地でも戦った?
- どのように終結した?
関ヶ原の戦いの概要
豊臣家のためにと東軍・西軍に分かれる
秀吉が死んで2年後、1600年9月15日、全国の戦国武将が徳川家康の率いる東軍か、石田三成が中心となっていた西軍のいずれかに属して戦うという大きな戦が関ヶ原の戦い。両者とも「豊臣家のため」という大義名分を掲げていたが、家康の目的は徳川家が権力を握る新体制を築くことだった。対して三成は幼いころから秀吉の家臣であり、豊臣政権が続くことを熱望していた。
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わずか1日で終結
家康は敵である西軍の小早川秀秋に東軍への寝返りになるように説得し、小早川秀秋はこれに応じる形で東軍に寝返り、西軍への攻撃をした。これを機に戦局は東軍に傾き、一気に西軍を追い込み、三成は処刑され、わずか一日で東軍勝利で終結した。
決戦前の動き
6月18日 東軍 会津へ出陣
家康は、会津の上杉景勝に謀反の兆しがあるとして東北へ出陣していた。
7月24日 西軍 挙兵
三成は、家康の東北出陣を機に挙兵。
7月24日 東軍 上杉攻めを中断
家康は、三成の挙兵を聞き、上杉攻めを中断し、東軍を二手に分け、東海道と中山道からそれぞれ関ケ原へ向かわせた。
8月5日 東軍(家康) 江戸城へ戻る
家康はいったん江戸にもどり、戦の準備を整える。9月1日に関ケ原に向けて出発。
8月24日 東軍(秀忠) 中山道進軍
秀忠率いる軍が中山道を進軍開始
9月5日~9日 東軍(秀忠) 第二次上田合戦で足止め
秀忠の軍は上田で真田軍に足止めをくらい、なかなか関ケ原に向かうことができなくなる。最終的に秀忠は本戦には間に合わず、東軍勝利の報を受ける。
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9月9日 東軍(家康) 岡崎城到着
9月1日に江戸を出発した家康軍が岡崎城に到着。
関ヶ原の戦い 本戦の推移
1600年9月15日AM1:00~6:00 両軍が関ケ原に布陣
統率のとれた東軍 約8万8000に対して西軍 約8万。西軍の中には三成に反発を抱くものも多く、家康と内通している武将もいた。
AM8:00 開戦
深い霧が立ち込めるなか、戦いがはじまる。両軍の戦いは昼頃まで一進一退のまま続いた。
PM0:00 小早川軍の寝返り
家康は西軍の小早川秀秋に東軍に寝返るように使者を送り、砲撃で威嚇。ついに小早川隊は西軍に攻撃を開始。
PM2:00 石田軍の敗走
小早川隊の寝返りを機に、西軍は窮地に追い込まれ、そのまま崩れて三成は処刑され、東軍が勝利で終結。
全国の関ヶ原の戦い
日本全国の武将たちが東軍と西軍に分かれ、それぞれの地域で関ケ原の戦いの前哨戦を行っていた。
1600年7月~10月 慶長出羽合戦
西軍:上杉景勝 VS 東軍:伊達政宗、最上義光
上杉、伊達、最上といった東北地方の雄がぶつかり合った。本戦と同じく東軍が勝利。
8月 浅井畷の戦い
西軍:丹羽長重 VS 東軍:前田利長
居城を守るため加賀に戻ろうとする前田軍と丹羽軍の戦い。決着がつかないまま本戦が終結。
9月 第二次上田合戦
西軍:真田昌幸 VS 東軍:徳川秀忠
徳川軍の別働隊を率いていた秀忠が上田で真田軍に足止めをくらう。結果、秀忠は手こずり、本戦に間に合わなくなった。
9月~10月 石垣原の戦い
西軍:大友義統 VS 東軍:黒田如水
黒田如水は九州での覇権をにぎるため、大友義統は九州での復権を果たすためにぶつかり合った。
あとがき
全国の武将が東西に分かれた大戦だったが、わずか1日で終結する結果になった。家康の巧みな戦略と人望があったから東軍への寝返りで戦局を一気に変えたのではないかと思う。その辺が大河ドラマでどう描かれるか楽しみだ。
ではまた、ごきげんよう。