伊達政宗 スペインと組んで江戸幕府を倒そうとした独眼竜の男 楽しい日本史 -偉人編- 20

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徳川家3代に仕え、仙台藩を大きく発展させた独眼竜 伊達政宗について以下のような疑問を学習する記事。

  • 伊達政宗は何をした人?
  • 伊達政宗は本当はどんな人?

伊達政宗の情報

時代安土桃山時代・江戸時代
身分出羽、陸奥守護大名、仙台藩主
出身地宮城
別名独眼竜政宗
生没年1567年~1636年

時代背景

戦国から安土桃山時代、江戸時代のはじまりについてはこちらの記事をどうぞ

織田信長の登場

豊臣秀吉の天下

家康の江戸幕府

伊達政宗のすごさ

独眼竜

「独眼竜」というかっこいい呼び名でしられる伊達政宗。「独眼」とは目が一つという意味。5才のときに病気で右目の視力を失ってしまった政宗は、いつもメソメソしていた。「このままではいけない」と事態を重く見た家臣の片倉小十郎は、正宗を押さえつけ、右目の眼球を刀でえぐり出した。政宗は「スッキリした」とご機嫌になり、それから堂々と振舞うようになったそう。

天下統一を目論む青年

18才で家を継いだ政宗は、周辺諸国との戦に連勝し、23才で奥州(東北地方)の3分の1の領土を手にした。勢いにのった政宗は天下統一を目指すが、豊臣秀吉に先を越されてしまう。

天下への野望は捨てない

秀吉が死んで江戸時代になっても天下取りの野望はすてなかった。当時だれもやっていなかったスペインとの貿易を利用して、幕府を倒そうと計画していた。政宗は巨大な船を作り、家臣たち180人をスペインに派遣。予定ではスペインと軍事同盟を結んで大艦隊とともに帰国するはずだったが、幕府がキリスト教禁止令を出したため、同盟は失敗に終ってしまう。

生まれるのが早ければ・・・

夢は破れたが、決して逆境にめげない政宗は「生まれるのが20年早ければ天下人になれた」と称えられるようになった。

伊達政宗ってじつは・・・

秀吉に謝罪でなんとかする

政宗が23才の時、天下を統一した秀吉から北条家を攻めるために参加命令が下されるが、政宗は北条家と同盟を組んでいたため、どっちにつくか迷っていた。結局は秀吉につくことを決めたが、戦は終わりかけで、戦に遅刻したことで秀吉に潰されてもおかしくない状況になってしまった。ところが、政宗は機転をきかせ、秀吉に会いに行くときに死装束を着て「次男をひいきしている母に毒を盛られてしまい死にそうになっていた。それでも秀吉様を怒らせてしまったので死ぬ覚悟でやってきました」と、言い訳をして頭を下げた。秀吉はあっぱれと思ったのか、つい許してしまった。

また謝罪

こりない政宗は、次の年も反乱を起こそうとして秀吉にばれてしまう。またしても死装束姿になるが前回と一緒では芸がないということで、金ぴかのはりつけ台を自分でかついで町中をパレードしながら秀吉の元へ行って謝り倒した。

家康にも謝罪

その後の「関ヶ原の戦い」のときも反乱に失敗し、家康に謝っている。いつか天下を狙おうという勢いがすごく、何度も反乱を企ててはバレて謝罪というパターン。すべて許されるところがすごすぎる。

あとがき

偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。

ではまた、ごきげんよう。

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