足利尊氏 時代の潮目を読んで大立ち回りの世渡り上手 楽しい日本史 -偉人編- 10

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もともと源頼朝と同じ源氏の子孫。北条氏が鎌倉幕府を握っていることに不満を持っていて、室町幕府を開いた足利尊氏についての以下のような疑問を学習する記事。

  • 足利尊氏は何をした人?
  • 足利尊氏はどんな人?
  • 足利尊氏はどのように室町幕府を開いたのか
  • 足利尊氏はどのように死んだ

源義経の情報

時代室町時代
身分征夷大将軍
出身地京都
別名足利高氏
生没年1305年頃~1358年

時代背景

鎌倉幕府から室町幕府までの流れ

大帝国・元

13世紀はじめ、チンギス・ハンがモンゴル(蒙古)を統一し、後継者たちはユーラシア大陸に大帝国を建設した。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、国号を元として日本侵略のために2度攻めてきた。これを元寇という。
フビライ・ハンはマルコ・ポーロの旅行記「東方見聞録」に記された「黄金の国・ジパング」の記述にひかれ、日本を手に入れようとしたともいわれている。

元との戦い

高麗が元に降伏し、元の属国となってしまい、900艘の船をつくり、日本に兵を出したり、言うことを聞かなければならなくなった。一方日本は鎌倉幕府8代執権 北条時宗の時代で、元からの国書では日本を格下に見ていて、国交を結ぼうといいながら、言うことを聞かなければ兵をおくるという脅しをかけてきていた。

壱岐・対馬への侵攻

約3万の元軍に対し、壱岐の守護代・平景隆は100人ほどで戦って敗れ、家来に大宰府へ伝えるように命じて自害した。対馬の子供は200人も拉致され、壱岐・対馬の人はほとんど殺されてしまった。幕府も元の脅威を身をもって感じる。

文永の役

1274年、元は壱岐・対馬を襲い、3万の兵と900艘の軍船で博多を攻め、日本は1万で防戦したが、日本は苦戦しつつ勇敢に戦い、元は翌日撤退した。日本は初めて見る手榴弾のような爆発する武器に驚いた。

防塁を築く

幕府は再度の元の侵攻に備え、九州の御家人に警護の強化を指示し、博多湾に約20kmにわたる防塁を築いた。これにより簡単に元は上陸できなくなった。

弘安の役

1281年 元は南宋を滅ぼすと、朝鮮半島と中国大陸の2方向から、およそ14万の兵と軍船4400艘という1度目よりもはるかに多くの軍勢で再度博多を襲ってきた。日本は元軍の上陸を阻止、元軍は嵐で全滅した。

北条氏の勢力

北条氏の勢力拡大

蒙古来襲で御家人たちは大きな犠牲を払う。しかし、日本を守るための戦いだったため、新しい領地を得られず、幕府は御家人たちに十分な恩賞を与えられなかった。幕府は元の再来に備え、九州の御家人たちに警護を命ずるとともに、九州に北条一門を派遣。北条氏の勢力を西へ広げた。

元の衰退

元は北樺太や琉球も攻め、大越(ベトナム)に侵攻するも失敗し、一族の反乱もあり国力が衰退。結局、3度目の日本侵攻はできなかった。

得宗専制政治

2度の元の襲来を退けた8代執権・北条時宗は若くして亡くなる。この貞時が9代執権となり、幕府は得宗(北条氏のトップ)の権力が増し、得宗の家臣である御内人と御家人が対立することになる。
御内人の代表・平頼綱が有力御家人・足立泰盛を滅ぼす。(霜月騒動)その後、北条貞時が平頼綱を倒し、得宗として幕府の実権を掌握する。

南北朝のはじまり

揺らぐ北条氏の支配

幕府と御家人の絆が薄れる中、社会の変化に応じて力を付ける新興の武士が現れ、荘園領主などに武力で対抗して悪党と呼ばれた。社会不安が高まる中、各地で悪党が横行し、幕府は鎮圧に苦しむことになる。一方、朝廷は大覚寺統と持明院統に分裂し、天皇継承争いが起き、争いが激化すると、朝廷は幕府にどちらの天皇かを迫るが、元寇の混乱に追われていた幕府は決められず、南北交互に天皇になるのが良いとしたが、これに納得のいかなかった朝廷は、鎌倉幕府打倒を考える。

倒幕の動き

13世紀後半、後醍醐天皇は即位後、政権を幕府から朝廷に取り戻すため、倒幕を決意して挙兵しますが、失敗して隠岐に流される。しかし皇子の護良親王や悪党の楠木正成らが畿内の悪党をまとめ、反幕府の動きを活発化させる。

反幕府勢力の討伐

鎌倉幕府は御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)を京都に派遣し、反幕府勢力の討伐を命令する。しかし14代執権・北条高時の政治の不満があった尊氏は幕府を裏切り、逆に幕府の出先機関の六波羅探題を攻め落とす。同じころ、関東の有力御家人・新田義貞も後醍醐天皇につくことを決意。関東の御家人たちも新田を支持し、大軍となって鎌倉を攻めた。これにより北条高時以下、北条一門は滅亡し、鎌倉幕府も滅亡し、南北朝時代に突入した。

足利尊氏のすごさ

北条氏を裏切る

足利尊氏はもともと源頼朝と同じ源氏の子孫。源氏の将軍家は3代でほろび、北条氏が鎌倉幕府の中心となっており、尊氏はただの家臣にすぎなかった。
尊氏が26才のとき、後醍醐天皇が倒幕を決意し、幕府をせめてきたが、尊氏が返り討ちにし、罰として島根県の隠岐に島流しにする。しかし、2年後に島から脱出してまた攻めてきた。尊氏はその根性に感動し、一緒に幕府を倒すことを決意し、北条氏を裏切り鎌倉幕府を滅亡させる。

後醍醐天皇を裏切る

鎌倉幕府滅亡後、尊氏の弟・直義が守る鎌倉に北条氏の残党による反乱が起きるが、後醍醐天皇は助けてくれず、尊氏たちのみで反乱を制圧した。武士たちからも後醍醐の天皇中心政治のせいで武士の立場がなくなっているという訴えに心を動かされてしまう。尊氏は後醍醐天皇を裏切り、鎌倉で武士中心の幕府を作り直そうとする。後醍醐天皇はそれを阻止しようとするも、尊氏に敗れ、結局京都で室町幕府を開くことになった。

足利尊氏ってじつは・・・

ビビッて出家しようとしていた

後醍醐を怒らせてしまったときに天皇に逆らうのは重罪のため、尊氏はビビッて寺に引きこもり、出家しようとしていた。しかたがないので弟・直義は尊氏がやる気をだすまでの間ひとりで戦うことになった。

田楽にふける

室町幕府がスタートしてからも尊氏は戦だけが得意なので政治を直義に丸投げして当時流行していた田楽見物に明け暮れる。見かねた直義は尊氏の田楽見物を制限する。

尊氏 VS 直義

がまんの限界がきた直義は尊氏と対立し、戦いに勝つ。負けた尊氏に反省のそぶりはなく、それどころか、かげで直義派の武士を襲って無理矢理味方にしてしまう。最終的に直義を幽閉し、毒殺してしまう。しかし、直義頼りだった尊氏では政治がうまくいかず、直義派の臣下に反乱を起こされ、その時の矢傷がもとで死んでしまう。

あとがき


偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。

ではまた、ごきげんよう。

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