日本一の出世人 豊臣秀吉が何をしたかを簡単に解説
- 豊臣秀吉って何をしたの?
- 何がすごかったの?
- 豊臣秀吉の最後は?
秀吉 年表
いつ | できごと |
---|---|
1537年 | 尾張の身分の低い家の子どもとしてうまれる |
1554年 | 足軽として織田家に出仕 |
1570年 | 姉川の戦いに織田家の家臣として参戦し、勝利 |
1573年 | 小谷城攻めを指揮し、褒美として小谷城を与えられる |
1582年 | 1582年本能寺の変で信長が急死し、秀吉はすぐさま明智光秀を討った。ポスト信長の座を手に入れる |
1584年 | 各地の制圧に乗り出す |
1585年 | 天下を望むライバルたちとの戦いに勝利し、関白に任命される |
1590年 | 小田原攻めで北条家に勝利し、天下統一を成し遂げる |
1592年 | 朝鮮半島への出兵を命じ、国外へ勢力を広げようとする |
1598年 | 幼い息子・秀頼を遺し、伏見城にて死去 |
秀吉の出世
木下藤吉郎
秀吉ははじめ木下藤吉郎と名乗っていた。信長が藤吉郎を気に入った逸話として有名なのが、寒い日にふところであたためたぞうりを渡したというもの。これはつくり話ともいわれているが、信長は秀吉をかわいがるようになった。
武将へ
信長に気いられた秀吉は、馬の世話係から、足軽頭へと出世し、美濃の斎藤家との戦いで、武将としての頭角を表していった。
信長の家臣として活躍
戦での活躍
斎藤家との戦いで活躍した秀吉は、姉川の戦い、小谷城の戦いなどでつぎつぎと活躍の場を得た。
ついに城主に
戦での活躍も認められ、ついに長浜城を与えられ、織田家の有力家臣となる。信長からの信頼はあつく、秀吉をしたう家臣も増え、信長の天下統一事業を支えた。
織田信長についての解説記事はこちら
ポスト信長へ
信長の敵討ち
本能寺の変で信長が急死した際には、中国地方の攻略を命じられていて毛利軍と対峙していた秀吉だったが、急遽戻る中国大返しで、信長を討った明智光秀を滅ぼした。
清須会議での勝利
その後、ポスト信長を決めるための有名な清須会議で信長の孫・三法師を擁立して勝利した。
家康との対立
徳川家康との間で起こった小牧・長久手の戦いでは、家康と講和を結んで服従させることに成功。こうして秀吉は信長の後を引き継ぐ形で天下統一事業を進めていった。
各地の制圧
関白となり各地制圧
秀吉は1585年に関白に任命され、「豊臣」の姓を朝廷から賜る。四国地方、九州地方に軍を送り、各地の大名を豊臣家の配下にした。
太閤検地と刀狩り
太閤検地
日本中の田んぼの大きさを測り、米の量(石高)を調べる升やものさしの大きさを統一した。こうして、正しい量の年貢を農民たちに納めさせた。
刀狩り
農民が反乱を起こさないように、武器を取り上げて、武士と農民の身分を分けた。おもにこのような改革は家臣の石田三成が担当した。
ついに全国統一
小田原攻め
1590年の小田原攻めでは、全国から配下の大名たちが集まり、秀吉に対抗していた北条家を倒した。こうして秀吉は天下統一をついに成し遂げた。
秀吉のさいご
秀吉の横暴
天下を手にした秀吉は、甥・秀次を切腹させ、朝鮮半島へ出兵を命じるなど横暴が目立つようになった。多くの家臣たちが不安や不満を抱いた。
秀吉の死
1598年、幼い嫡男・秀頼を遺し秀吉は死去。豊臣政権の力は次第に衰えていく。
死因
秀吉の死因は病死だと言われてるが、病名についてははっきりわかっていない。脳梅毒、尿毒症、脚気、大腸癌などと言われている。精神面では、どんどん偉くなることで気兼ねなく話せる人が少なくなったり、さらに晩年になり、実母の大政所、実弟の秀長に先立たれたことが精神的なダメージとなったと言われている。50代後半になると老衰により無意識のうちに失禁することもあったそう。
あとがき
低い身分から信長の家臣となった秀吉。柴田勝家、徳川家康などのライバルをおさえて信長の後を継いで天下統一を成し遂げ、ついには関白まで昇りつめた。戦国の下剋上の時代でなければ叶うことのない大出世をして後世にわたり「日本一の出世人」といわれるようになった。今でも愛される存在でもある秀吉は戦国ドリームを体現したということだろう。
ではまた、ごきげんよう。