中国の歴史 唐による東アジア世界の確立 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-

CHINA AND EAST ASIA

隋が369年ぶりに中国統一をするが、2代で滅亡し、版図を広げて東アジアに君臨した唐王朝

その唐について、「王朝が並立した南北朝時代」、「隋の天下統一」、「最大版図となった唐」、「楊貴妃と乱」を学んでいきたい。


そこで、今回の内容はこちら

  • 王朝が並立した南北朝時代
  • 隋の天下統一
  • 最大版図となった唐
  • 楊貴妃と乱
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年表

いつできごと
304年五胡十六国時代がはじまる
317年東晋建国。司馬睿が首都を建康に
386年北魏建国。439年には華北を統一し南北朝時代がはじまる
589年隋が中国を統一。しかし2代約30年で滅亡する。
618年唐建国。都を長安として唐王朝およそ300年の歴史がスタート
712年玄宗皇帝が即位。755~763年には安史の乱が起こる
907年唐滅亡。朱全忠が後梁を建国して五代十国時代へ
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王朝が並立した南北朝時代

■北朝
西晋では皇帝の地位をめぐる八王の乱で、各勢力が周辺の異民族の力を借りたことで、五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)が中国侵攻をはたした。

およそ16の国が誕生し、再び乱世となり、西晋も匈奴に滅ぼされた。

中国の北方では鮮卑(拓跋氏)が北魏を起こし、華北を統一。

のちに西魏と東魏に分裂し、さらにそれぞれ皇帝が帝位を家臣に譲って北周と北斉になった。

北斉に勝った北周の皇帝も外戚の楊堅(ようけん)に帝位を譲り、楊堅は隋を建国した。

■南朝

西晋の一族の一人・司馬睿(しばえい)は、建康を首都として東晋を建国した。

建康は三国時代に建業という地名で呉の都が置かれていた場所。

中国南方では東晋のあと、漢民族を皇帝とする王朝(宗・斉・梁・陳)が続いた

隋の初代・文帝(楊堅)は陳を滅ぼして中国を統一し、南北朝時代が終わった。

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隋の天下統一

文帝は律令制度の整備や科挙(かきょ)(宦官登用試験)を開始し社会を安定した。

しかし、2代煬帝(ようだい)は大事業を行う一方で贅沢ばかりし、各地で反乱が起き、隋は滅亡してしまう。

■煬帝の政治
・大運河の建設
中国の南北(長安・杭州・北京地方)を結んだ

・高句麗遠征の失敗
朝鮮半島の高句麗を3回も攻めるも失敗。

最大版図となった唐

隋を倒した李淵(りえん)は唐を建国

2代・太宗(たいそう)は律令格式(りつりょうかくしき)を整えたほか、隋の制度も活用し、唐を世界帝国に成長させた。

律令格式の法整備のほか、中央の官制(役人の組織)を整えた。

・律
犯罪と刑罰に関する刑法

・令
行政組織・活動に関する行政法

・格
律令の追加・補足

・式
律令施行のための細則

typeの人材紹介

楊貴妃と乱

6代・玄宗(げんそう)は唐の全盛期をつくるが、56歳で楊貴妃に出会ってから楊一族を待遇するようになった。

政治は大混乱し、軍人の安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)が9年に及ぶ「安史の乱」を起こした

また、安史の乱の間に塩の専売制が復活し、価格が数十倍になり、のちに民衆は密売人・黄巣(こうそう)らと「黄巣の乱」を起こした

制度も崩壊、公有地の多くが私有地となり、租調庸制は両税法(りょうぜいほう)(面積・生産力に応じて課税)へ。

地方では、司令官(節度使)が自らの支配地域で兵を募り、統治するようになり、最後は節度使・朱全忠が唐を滅ぼした

まとめ

今回の内容をまとめると

  • 三国の争いを制した晋だったが、帝位をめぐる内乱で五胡(5民族)の侵入を許し、華北地方では約16国が乱立する五胡十六国時代となった。
    のちに北方民族王朝と漢民族王朝が並立する南北朝時代となった。
  • 隋の初代皇帝・文帝は律令制度の整備や科挙(かきょ)(宦官登用試験)を開始し社会を安定したが、2代・煬帝(ようだい)は大事業を行う一方で贅沢ばかりし、各地で反乱が起き、隋は滅亡。
  • 隋を倒した李淵(りえん)は唐を建国し、2代・太宗(たいそう)は律令格式(りつりょうかくしき)を整えたほか、隋の制度も活用し、唐を世界帝国に成長さた
  • 6代・玄宗(げんそう)は唐の全盛期をつくるが、楊貴妃に出会ってから楊一族を待遇するようになり、 政治は大混乱した。最後は節度使・朱全忠が唐を滅ぼした。


ではまた、ごきげんよう。

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