中国の歴史 項羽と劉邦 ライバルの戦い 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-

CHINA AND EAST ASIA

秦が滅びると、中国は再び混乱の時代へ。
そんなとき、楚の名門 項羽漢の農民 劉邦が統一を目指した。

その項羽と劉邦について、「項羽ってどんな人?」、「劉邦ってどんな人?」、「項羽と劉邦の戦い」を学んでいきたい。


そこで、今回の内容はこちら

  • 項羽ってどんな人?
  • 劉邦ってどんな人?
  • 項羽と劉邦の戦い
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年表

いつできごと
紀元前209年陳勝・呉広の乱が起こり、中国各地で秦への反乱がはじまる
紀元前206年秦が滅亡。鴻門の会が開かれる
紀元前206年項羽が西楚の覇王を称し、劉邦を漢中に左遷。楚漢戦争勃発
紀元前205年彭城の戦いで項羽は劉邦に大逆転勝利
紀元前204年ケイ陽の戦いで劉邦は敗戦。リベンジ戦も項羽にかなわず敗走
紀元前202年垓下の戦いで劉邦は項羽に勝利。楚漢戦争が終結
紀元前202年漢王朝成立。劉邦が初代皇帝となる。

項羽ってどんな人?

秦に滅ぼされた楚の将軍家の出身で、史上最強ともいわれる武勇で恐れられた。

自らを覇王と名乗った。

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劉邦ってどんな人?

始皇帝のお墓の造営のために駆り出されていたところ、反乱がおこり挙兵。

中国史上で2人しかいない農民出身の皇帝となる。

種類3

項羽と劉邦の戦い

鴻門の会(こうもんのかい)

項羽は秦の都・関中の攻略で劉邦に先をこされ、楚の家臣は劉邦を鴻門での宴会に招き暗殺しようとした

しかし、劉邦のブレーン・張良らの機転により失敗に終る。

項羽が西楚の覇王になる

項羽は秦王室と家臣を殺害したあと、楚を再建し「西楚の覇王」を名乗った。

劉邦を奥地の漢中へ左遷した。

ほかにも自分と親しい者ばかりをひいきした。

彭城の戦い(ほうじょうのたたかい)

劉邦は項羽が斉の鎮圧に向かっているすきに50万以上の兵力を集めて楚の都・彭城を占領した。

項羽は激怒し精鋭3万を率いて帰国し、劉邦軍を撃退した。

50万だった漢軍が3万の楚軍に負けたのは、漢軍は勝ったと思い、大宴会を開いていたからだと言われている。

ケイ陽の戦い

彭城の戦いに敗れた劉邦はケイ陽で籠城したが、楚軍の猛攻に耐えきれず逃亡。

楚と和睦したあと、項羽を背後からだまし討ちにするが、また負けてしまう。

垓下の戦い(がいかのたたかい)

劉邦は韓信(かんしん)や彭越(ほうえつ)らとともに楚軍に再び挑み、ついに項羽を垓下に追いつめた

項羽は故郷をめざすが、追いつかれて自害

楚漢戦争は終結した。

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まとめ

今回の内容をまとめると

  • 項羽は秦に滅ぼされた楚の将軍家の出身で、史上最強ともいわれる武勇で恐れられた。自らを覇王と名乗った。
  • 劉邦は始皇帝のお墓の造営のために駆り出されていたところ、反乱がおこり挙兵。農民出身の皇帝となる。
  • 項羽と劉邦は5回にわたり戦いを繰り返す。項羽が優勢であったが、垓下の戦いで劉邦が項羽を追いつめて勝利した。


ではまた、ごきげんよう。

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