桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府は復権のために朝廷との絆をふかめようと「公武合体」政策を行う。
公武合体を進める一方、幕府は朝廷が訴える攘夷を決行できずにいた。
そんな混乱した幕府について「幕府をとりまく状況とは」「公武合体政策とは」が気になる。
また、「分裂した国内派閥と思想」「日本各地での攘夷テロ」についても学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 桜田門外の変以降の幕府をとりまく状況
- 公武合体政策とは
- 分裂した国内派閥と思想
- 日本各地での攘夷テロ
年表
いつ | できごと |
---|---|
1861年 | 和宮が14代・家茂に嫁ぐため、江戸にくる |
1862年 | 坂下門外の変が起こり、老中・安藤信正が襲撃される |
1862年 | 伏見で薩摩藩士同士が斬りあう、寺田屋事件が起こる |
1862年 | 島津久光が公武合体政策を推し進め、一橋慶喜が将軍後見職となる |
1863年 | 長州藩が下関で、米・仏・蘭の外国船に砲撃する |
1863年 | 生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島を砲撃 |
桜田門外の変以降の幕府をとりまく状況
桜田門外の変をはじめ、尊王攘夷派の動きは過激になっていった。
しかし、諸外国からの圧力は強く、幕府は条約破棄をした場合の報復を恐れた。
また、世界の発展から遅れた日本を開国させ、西洋の進んだ技術を取り入れようとする開国派もいた。
さまざまな意見が飛び交う中で、幕府はどっちつかずな政策を続けることになっていた。
公武合体政策とは
公武合体政策の象徴となったのは、孝明天皇の妹・和宮と、14代将軍・徳川家茂の結婚だった。
しかし、和宮は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)とすでに婚約していたため、これを破棄させて和宮を幕府に嫁がせたのだった。
代わりに、孝明天皇は幕府に攘夷の決意をするようにと持ち掛けた。
分裂した国内派閥と思想
国内では、江戸幕府を倒そうとする討幕派、親幕府の佐幕派に分かれた。
また、攘夷派、開国派も入り乱れていた。
その混迷ぶりに14代・家茂は将軍職を辞職したいと言うほどだった。
討幕派 | 佐幕派 | |
開国派 | 開国したいが、幕府には任せられない。 | 開国はしかたない。 江戸幕府が日本を守る。 |
攘夷派 | 幕府を倒して、我々が攘夷を決行する。 | 江戸幕府が攘夷を決行する。 |
日本各地での攘夷テロ
外国人を排除しようとする攘夷派は過激化し、日本各地でテロ事件を起こすようになった。
なかでも、尊王攘夷派が力を持っていた長州藩は、外国船に砲撃し、イギリス・フランス・アメリカ・オランダとの戦いになった。
また、薩摩藩もイギリスと薩英戦争を起こした。
そして、身をもって攘夷が不可能なことを悟っていった。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 尊王攘夷派の動きは過激になるが、幕府は条約破棄をした場合の諸外国からの報復を恐れた。
また、西洋の進んだ技術を取り入れようとする開国派もいる中で、幕府はどっちつかずな政策を続けた。 - 公武合体政策の象徴は、孝明天皇の妹・和宮と、14代将軍・徳川家茂の結婚で、その交換条件として孝明天皇は幕府に攘夷の決意をするようにと持ち掛けた。
- 国内では、江戸幕府を倒そうとする討幕派、親幕府の佐幕派に分かれ、さらに攘夷派、開国派も入り乱れていた。
- 攘夷派が日本各地でテロ事件を起し、長州藩は外国船に砲撃し、薩摩藩はイギリスと薩英戦争を起こした。その結果、身をもって攘夷が不可能なことを悟っていった。
ではまた、ごきげんよう。