人質時代をすごし、強大な敵・家康に立ち向かった戦国最後のヒーローとして知られる真田幸村について以下のような疑問を学習する記事。

- 真田幸村は何をした人?
- 真田幸村は本当はどんな人?


徳川家康の情報
時代 | 安土桃山時代・江戸時代 |
身分 | 武将 |
出身地 | 長野 |
別名 | 真田信繁 |
生没年 | 1567年~1615年 |
時代背景
戦国から安土桃山時代についてはこちらの記事をどうぞ
織田信長の登場
豊臣秀吉の天下
真田幸村のすごさ
遅咲きの関ヶ原の戦いデビュー

あまり力のない真田家の次男としてうまれた幸村は、若いころは上杉景勝や豊臣秀吉のもので人質生活を送った。そのため、武将デビューは遅く、33才のときの関ヶ原の戦いからだった。
徳川家康の人生についてまとめた記事はこちら。
真田家で東西に分かれた関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは真田家存続のために、真田家の兄弟は敵と味方に分かれて戦った。石田三成の親戚だった父・真田昌幸と次男の幸村は西軍に、徳川家康の幼女を妻にした長男・信幸は東軍について戦った。
西軍・石田三成の解説記事はこちら
態度を変えて味方を増やす
東軍・徳川家康の解説記事はこちら
徳川秀忠に勝利
関ヶ原の戦いで幸村は、徳川家康の子・秀忠にあざやかに勝利し、一気に有名になった。幸村は関ヶ原にむかう途中の秀忠を「家康のバカ息子」とからかい、まんまと怒って突進してきたところを待ち構えて襲撃した。
西軍の敗北
幸村は勝利していたものの、結局、西軍は負けてしまい、幸村は父とともに流罪になってしまった。
大坂の陣でのリベンジ
流罪から14年後に脱走。豊臣家VS徳川家の大坂の陣で再び家康と戦った。幸村は少ない兵ながら激しい攻撃をしかけ、家康を切腹寸前まで追い詰めた。しかしギリギリのところで家康の味方がかけつけ、幸村は傷を負って逃げることになった。
かっこいい最後
逃げて木にもたれて休んでいたところを敵に見つかると、フッと笑い、「おれの首をとって手柄にしろ」と言ったそう。幸村は最後までかっこよく、まさに戦国最後のヒーローのような存在だった。
豊臣家の滅亡への流れについての記事はこちら。
真田幸村ってじつは・・・
兄の温情で処刑を逃れる
関ヶ原の戦いで西軍が敗北し、真田幸村と父・昌幸は処刑されかけたが、東軍についていた兄の信幸が父と弟を助けてほしいと家康にお願いし、流罪ですんだ。
田舎での極貧生活
和歌山にある高野山のふもとに流された幸村親子は、妻子や数人の家臣たちとボロい家に住んでいた。働くことも外出することもできず、生活は暇なニート同然だった。
家族に援助を要求
お金も全然なく、父・昌幸は徳川家に味方した四男に手紙で助けを求めていた。結局、苦しい生活で身も心も疲れ果てたせいか、昌幸は病気になって11年後に亡くなった。
お金がなくとも焼酎
一方、幸村はお金がなくて大好きな焼酎はがまんできず、兄の家臣にツボを二つ送りつけ、酒を要求していた。流罪になってから14年間は幸村はいろんな人にたかり続けて生きていくしかなかった。徳川家側にた真田家の人びとも肩身の狭い思いをしながらお金や酒を支援していたので、それは大変だっただろう。
あとがき
偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。

