甲斐(山梨)の武将で上杉謙信と何度も戦を交えた。戦国時代最強の軍隊を持ったと言われ、「甲斐の虎」と呼ばれて関東甲信越において強大な力を持っていた武田信玄についての以下のような疑問を学習する記事。
- 武田信玄は何をした人?
- 武田信玄はどんな人?
- 武田信玄のすごいところ
- 上杉謙信や織田信長との関係・争い
武田信玄の情報
時代 | 戦国時代 |
身分 | 甲斐守護大名 |
出身地 | 山梨 |
別名 | 甲斐の虎 |
生没年 | 1521年~1573年 |
時代背景
室町幕府衰退から戦国時代のはじまりについてはこちら
関東甲信越の変遷
戦国大名の先駆けといわれる北条早雲(伊勢盛時)は、下剋上で戦国大名となった。関東甲信越には、鎌倉公方、関東管領など地方自治をになう重要な役職があったが、早雲ら戦国大名たちの下剋上によってその体制は崩れていった。
1493年頃 足を引っ張り合う守護大名
関東の覇権をめぐって争っていた、山内上杉家と扇谷上杉家。両者の争いや情勢を見ながら、周囲の戦国大名たちはどちらにつくかを考え、その隙をねらって躍進したのが北条早雲(伊勢盛時)だった。
1545年頃 北条家と武田家の躍進
両上杉家は衰退し、代わりに台頭したのが北条家を継いだ北条氏康や武田信玄といった戦国武将。長尾家では長尾景虎(のちの上杉謙信)が家督を継ぎ、信玄対謙信で有名な川中島の戦いなどが起こった。
武田信玄のすごさ
武田の家督を継ぐ
信玄の父は甲斐を最初に統一した実力者の武田信虎。しかし信虎はなぜか長男の信玄をきらい、次男を後継ぎにしようとした。そのため、信玄は父を追放し、21才の若さで家を継いだ。
武田軍
信玄は甲斐を守るのは人との信頼関係だと考え「人は城、人は石垣、人は堀」という名言を残した。この言葉通り、石垣や堀ではなく、部下へのお給料にたっぷりお金を使った。そのため武田軍の戦力と結束力は戦国時代最強で、武田二十四将とよばれる24人の凄腕の武将を中心に、激しい戦に勝ってどんどん領土を広げていった。
宿敵 謙信
なかでもライバルとなった上杉謙信との決戦はとくに激しく、10年以上5回にもおよんだ。
信長の牽制と病気
50才になったころ、天下統一を目指す織田信長を阻止するため、信長と同盟を結んでいた徳川家康と対決する。この「三方ヶ原の戦い」で、武田軍は圧勝するものの、信玄が病気で倒れ、途中で甲斐に引き返す。信玄は信長に侵略されることをおそれ、信玄の死を3年間秘密にするように言い残したという。
武田信玄ってじつは・・・
イケメン好き
無骨でマッチョなイメージのある信玄だが、イケメンにメロメロだった。じつは戦国時代は男同士の恋愛がかっこいい。という感覚があり、織田信長や伊達政宗にも普通に男の恋人がいた。
お気に入りの少年
信玄がもっとも愛したといわれているのが春日源助という少年。源助は身分の低い農民出身だったが、よっぽど美少年だったのか、父が死んで天涯孤独のところを信玄に拾われて家臣となった。信玄は源助を気に入り、猛アタックをかける。この時、信玄は25才、源助は19才。
必死な信玄
猛アタックをかけるも源助はつれない態度。じつは信玄はこっそり弥七郎という別の少年にもアタックしていたことがバレたためだった。あわてた信玄は源助に必死に言い訳の手紙を送る。この手紙はいまでも実物が残っているそう。最強軍団をひきいる信玄が、必死にへこへこと謝っている。権力にものをいわせて自分のものにできそうだが、源助に嫌われたくなかったのだろう。ちなみに、信玄は源助も弥七郎にもフラれている。
あとがき
偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。
戦国大名の台頭についてはこちらの記事。
世界の大航海時代が日本にもたらした影響についてはこちらの記事。
ではまた、ごきげんよう。