室町幕府が力を失い、混乱していた日本に織田信長が登場する。信長が何をしたかを簡単に解説
- 織田信長って何をしたの?
- なぜすごいと言われているの?
- 織田信長の最後は?
信長 年表
いつ | できごと |
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1534年 | 尾張の織田信秀の嫡男として、織田信長がうまれる |
1560年 | 桶狭間の戦いで、東海の覇者・今川義元に勝利 |
1567年 | 美濃を攻略し、天下布武を掲げて天下統一を目指す |
1570年 | 姉川の戦いに勝利するが、10年続く石山合戦がはじまる |
1571年 | 比叡山延暦寺を焼き討ち。各地の武将から反発を招く |
1575年 | 長篠の戦いで武田勝頼に勝利。武田家が滅亡 |
1582年 | 本能寺の変で家臣の明智光秀によって暗殺される |
織田信長のうまれ
尾張の大うつけ
1534年、織田信長は尾張の小豪族の嫡男として生まれる。信長ははじめ「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。
勢力の拡大
織田家の家督を相続すると、その実力を日本中に知らしめてみるみる勢力を拡大していった。
1567年 美濃攻略と天下布武
1560年、桶狭間の戦いで駿河の今川家を倒した信長は続けて美濃の斎藤家を倒した。武力で天下を統一するという意味の「天下布武」を掲げて全国に織田家の存在を知らしめた。
1572年 信長包囲網
信長は室町将軍・足利義昭を利用して京にのぼった。これに周囲の戦国大名たちが反発。義昭も信長の傀儡(かいらい)になることを拒否して、信長包囲網が形成された。
信長と他の戦国武将との違い
中央集権制度を整備
当時の戦国武将と信長のちがいは、領地を広げるだけでなく、中央集権制度を整えて国家の樹立をめざしていたことにあると考えられている。
1578年 広がる領地と方面軍
織田家の領地は拡大し、家臣を派遣して、各地の武将たちと戦いを繰り返した。この家臣団を方面軍とよび、信長は織田家の地盤を固めるため、中央で政務にはげんだ。一方で家臣の中でも、信長に反発するものが出はじめる。
天下統一事業の継承
信長の天下統一事業は次の時代を担う、豊臣秀吉、徳川家康が信長の影響を強く受けた。
1582年 信長の最大版図
武田家が滅亡し、勢力はさらに拡大。朝廷は信長に官位を授けようとするが、信長は拒否する。朝廷の後ろだてさえ、信長には必要なかった。
信長のさいご
信長は、日本の歴史だけでなく文化や経済にも変化をおこしていった。しかし、夢半ばで家臣の謀反により命を落とした。
本能寺の変
1582年に腹心・明智光秀の謀反によって自刃。天下統一を目前に無念の死をとげる。
考えられているさまざまな説
なぜ光秀が謀反を起こしたのか、現在もさまざまな説が考えられている。
- 幕府復権を願った足利家が黒幕だった
- 直前に官位授与を拒否された朝廷を糸を引いていた
- 天下人になろうとしていた豊臣秀吉が光秀をそそのかした
などなど。
近年の有力な説
信長への謀反は光秀がはじめてだったわけではない。時代や信長の考えが変化するなかで、信長に不信感を抱いて謀反を起こす武将が数多くいたのも事実。
光秀は謀反の直前まで、四国の覇者・長宗我部家と和睦を結ぼうと奔走していた。しかし、信長は四国への軍の派遣を決定してしまった。こうして光秀は謀反を起こした家臣たちと同じく信長に強い不満を抱いて兵を挙げたとも言われている。
あとがき
日本の文化や経済にも変化を起こした信長の功績は大きい。その後も秀吉、家康、そして明治とつながる歴史の中で織田信長の活躍があってこそ今の日本があるように歴史のつながりを感じる。また、もし信長がもっと生きていたらどうなっていたのかな。という歴史のロマンも感じさせてくれる。
ではまた、ごきげんよう。