お札の顔としても活躍した聖徳太子について下記のような疑問についての記事。
- 聖徳太子って何をした人
- 聖徳太子の政治改革とは
- 聖徳太子と仏教の関係は
- 遣隋使とはどういったものだったか。隋の反応はどうだったのか
- 聖徳太子に関する逸話はどのようなものがあるか
聖徳太子の情報
時代 | 飛鳥時代 |
身分 | 皇子・政治家 |
出身地 | 奈良 |
別名 | 厩戸皇子 |
生没年 | 574~622年頃 |
聖徳太子のすごさ
皇子で摂政
31代天皇 用明天皇の子で皇子であり、19歳の時に叔母の33代の女性天皇 推古天皇を摂政の地位でサポートしていた。
仏教を広めた
日本の豪族同士が権力争いをしていた時代で、特に仏教を支持する派の蘇我氏と日本古来の神様を支持する派の物部氏の対立が激しかった。聖徳太子は仏教派の蘇我氏と協力して物部氏を倒し、争いを収め、法隆寺や四天王寺を作って仏教を日本に広めた。
政治改革
政治の大改革も行う。天皇に遣える役人を12の地位に分けてかぶる帽子の色で区別した「冠位十二階」を作り、当時は生まれによって能力に関係なく役人になれたので、家柄に関係なく実力で評価される仕組みを整えた。また、役人を守るべきルールとして「十七条憲法」も定めた。内容としては賄賂を受け取ってはいけない、勝手に税金をとってはいけない、というルールとなり、貧しい国民を守った。驚くことにこの二つの改革は現在の政治の基本と同じである。このシステムを1400年前につくるのはすごい。
聖徳太子ってじつは・・・
遣隋使でやらかし
当時、近くで大きな力を持っていた隋(中国)をお手本にしようとしていた聖徳大使は607年、隋に使者の小野妹子(名前はイモコでもおじさん)を派遣した。しかし、聖徳太子からの手紙を読んだ隋の皇帝はぶち切れてしまったという。それは手紙に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす」と書いていて、意味としては、日本が「太陽がでてくる国」、隋を「太陽が沈む国」とたとえているうえに皇帝のことをあらわした「天子」という言葉を自分にも使っているという大分上から目線な物言いになっていたのであった。
記録によると小野妹子は隋の皇帝からの返事を泥棒に盗まれたとなっているが、これはおそらく妹子のうそで、激おこの皇帝の返事を持って帰ると聖徳太子&推古天皇に恥をかかせてしまうのでこっそり捨てたのではないだろうか。
超人的な逸話
日本書紀で書かれている超人的エピソードを持っている。まるでスーパーヒーローのようだが、彼の正式な名前は「上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」といい、この名前の由来を説明しようとして生み出されたとされる説もある。伝説があるからこの名前になったのではなく、この名前だからこうだったみたいな。後付けされた説もあるが、これが本当かどうかというよりこのような伝説や逸話がある人物のは興味が持てるし、こんなエピソードを付けられるくらい有名で好感度も高い重要人物なのは間違いないと思う。信憑性どうこうではなく、素直に楽しんでいきたい。
キリストばりに馬小屋生まれ
その母が宮中の厩(うまや)の戸にあたった時に安産で生まれたとされる。日本のイエス・キリストのようで聖なる感じがする。宗教を広める人は馬小屋で生まれがちという説。
生まれてすぐ言葉を話す
生まれながら言葉を話すことができ、聖人の智をもっていた。賢すぎて生まれてすぐ話をしてしまうくらいに天才だったのだろう。
十人の声を聞き分ける
成人後は十人の訴えを聞き分けることができた。賢い上に業務効率も処理能力も高い。すごく仕事ができるし、理解力が高かったのだろう。
未来予言
未来のことを予言できた。完璧すぎる。イケてる隋をまねたのではなく未来を見てるように日本の政治改革をしたのかもしれない。
幼少期に宮殿住まい
父の用明天皇に寵愛され、幼少期は特別に上宮(かみつみや)とよばれる宮殿に住まわされたという。皇子なのでそうゆうものなのかなと思ってしますが、特別なことのようだ。きっと本当に寵愛されていたのだろう。
あとがき
偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。
古墳時代から飛鳥時代までの流れと聖徳太子と蘇我氏の政治についての記事はこちら。
ではまた、ごきげんよう。