室町幕府の3代将軍足利義満が南北朝を統一し、政治の仕組みを整えていく。このころに北山文化が盛んになる。
結局、足利尊氏は激しい人な印象は増していく中、つづく3代将軍・足利義満の手腕により守護大名を制圧して安定へともっていくできる人な印象。
ポイント
- 続く南北朝
- 足利尊氏と弟の関係・争い
- 守護大名とは
- 室町幕府3代将軍・足利義満の政治
年表
いつ | できごと |
---|---|
1336年 | 足利尊氏が建武式目を制定し、京都に室町幕府を開く |
1350年 | 観応の擾乱が勃発 |
1352年 | 足利尊氏が、弟・直義を殺害 |
1358年 | 足利尊氏が没する。2代目将軍に足利義詮が就任 |
1368年 | 3代将軍に足利義満が就任(11歳) |
1392年 | 南北朝の合一が成される |
1404年 | 日本と明との間で勘合貿易がはじまる |
おもな登場人物
動乱の広がり
南北朝の動乱は、後醍醐天皇が亡くなった後も、北畠親房が南朝の正当性を主張しながら続いた。北朝側では、足利尊氏と弟の直義が対立する観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起き、動乱はさらに複雑化。
観応の擾乱
北朝は尊氏が軍事、直義が裁判権などを担当し、二頭体制でうまくいっていたが、尊氏の執事の高師直が台頭し、両者は対立し、尊氏が直義を殺害することになった。
守護大名
相続の変化
鎌倉幕府は土地を分割相続していたため、土地不足になった。そこで室町幕府は後継ぎの子ひとりだけが相続する単独相続に規定。すると、相続できなかった子が反発し、惣領制が崩れた。一族の中で北朝支持と南朝支持に分かれることもあった。
守護大名の出現
幕府は全国を支配するために守護を設置。やがて守護は荘園や公領の年貢の半分を兵糧として与えられ、力を強めて鎌倉御家人が没落するなかで、一国を支配する守護大名になっていく。
守護に対抗する国人
地頭など、領主として地方に土着した武士を国人(こくじん)といい。国人は、守護に対抗して国人一揆を起こすことも多々あった。
室町幕府のしくみ
3代将軍・足利義満は南朝と北朝を合体。朝廷の警察・裁判・徴税の権利を奪い、将軍職を子に譲り太政大臣になった。将軍権力を強化し、室町幕府を安定させた。
明・朝鮮との貿易
足利義満は明や朝鮮と国交を開いて勘合貿易を行った。日本は銅銭や生糸を輸入し、刀剣や銅や硫黄を輸出し、莫大な利益を得た。
北山文化
室町時代は武士が文化的に成長した時代。足利義満は優れた文化人でもあり、金閣寺や能など、華麗な北山文化を育てた。
守護大名の抑制
土岐康行の乱(1390年)
伊勢・美濃・尾張の3か国の守護を務めた土岐康行が、一族の内紛をきっかけに、義満に討伐された。
明徳の乱(1391年)
11か国の守護を独占した山名氏清が、義満に挑発され京都に侵攻したが敗走。
応永の乱(1399年)
長門・周防など6か国の守護と、朝鮮貿易で富を蓄えた大内義弘が反乱し、敗走。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。