明は内憂外患に加えて干ばつもあり、衰退し、後金(アイシン)を建国される。
のちに国号を清に変えた。
その清について、「清の平和」、「異民族国家が中国支配できた理由」、「イエズス会と清」、「現代中国の民族問題」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 清の平和
- 異民族国家が中国支配できた理由
- イエズス会と清
- 現代中国の民族問題
年表
いつ | できごと |
---|---|
1616年 | 後金建国。初代・ヌルハチが都を盛京に置く |
1631年 | 李自成の乱が始まる |
1636年 | 後金の2代・ホンタイジが国号を清に変える |
1644年 | 明滅亡。清の3代・順治帝が北京に入り盛京から都を移す |
1661年 | 清の平和、はじまる。 4~6代皇帝が判図拡大、文化も発展 |
清の平和
明が衰退してきたころ、中国東北部ではかつて金を率いた女真族が再び力をつけ、後金(アイシン)を建国した。
後金の2代皇帝・ホンタイジが国号を清に変え、朝鮮を服従させるなど勢力を拡大した。
明は、反乱軍のリーダー・李自成(りじせい)によって滅亡した。
明の将軍・呉三桂(ごさんけい)が清を北京に招き入れ李自成軍を追い出したことにより、中国は清の時代を迎えた。
清は異民族王朝だったため鄭成功(ていせいこう)ら漢民族による抵抗を受けたが、厳しい統制の一方で漢民族に優しい政策も採用し、支配体制を築いた。
4代・康煕(こうき)帝、5代・雍正(ようせい)帝、乾隆(けんりゅう)帝の時代は社会も安定して文化も発展し「清の平和」と呼ばれた。
異民族国家が中国支配できた理由
異民族国家だった清が中国を支配できた理由としては、以下が考えられている。
①領土と統治システム
広い領土と2億人の漢民族を30~60万人の満州族で統治した清は、八旗(はっき)という軍事・行政組織をつくり、満州・蒙古(モンゴル)・漢に分けて管理した。
②明のシステムを継承
清は明にならい、皇帝直属の行政部署や科挙を採用したほか、重要な官職は満州族と漢族を同数任命しバランスをとった。
③満州文化の強制と反清弾圧
清は漢民族との融和策をとる一方で満州文化を強制し、男性は「辮髪」(べんぱつ)という満州族の髪型をしなければならなかった。
反清・反満と判断された書籍は禁書とされ「文字の獄」と呼ばれる言論弾圧も強行。
乾隆帝は全国の書物を集めた「四庫全書」を編さんさせ、文化の発展に貢献したが、思想を取り締まる側面もあった。
イエズス会と清
イエズス会は中国の文化・思想を否定しない条件でキリスト教の伝道を許された。
のちに布教は禁止されるが、宣教師は西洋の学問を多く中国にもたらした。
マテオ=リッチは中国初の科学的な世界地図「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)をつくった。
また、中国全土の実測地図「皇興全覧図」(こうよぜんらんず)もつくられた。
建築では、カスティリオーネがヴェルサイユ宮殿を模したバロック式宮殿として清王朝の離宮「円明園」(えんめいえん)をつくった。
現代中国の民族問題
現在、中国は清の領土を引き継ぎ、そこで暮らす漢民族ほか計56の民族を「中華民族」とみなして中国を「中華民族」の国民国家としている。
現代中国が抱える民族問題は、清の判図拡大に始まっているといえる。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 明が衰退したころ、後金(アイシン)が建国され、後金の2代皇帝・ホンタイジが国号を清に変え、朝鮮を服従させるなど勢力を拡大した。
- 明は、反乱軍のリーダー・李自成(りじせい)により滅亡したが、明の将軍が清を北京に招き入れ李自成軍を追い出したことにより、中国は清の時代に突入した。
- 清は異民族王朝のため、漢民族による抵抗を受けたが、厳しい統制と漢民族に優しい政策を採用し、支配体制を築いた。4代・康煕(こうき)帝、5代・雍正(ようせい)帝、乾隆(けんりゅう)帝の時代は社会も安定して文化も発展し「清の平和」と呼ばれた。
- イエズス会は中国の文化・思想を否定しない条件でキリスト教の伝道を許され、宣教師は西洋の学問を多く中国にもたらした。
- 現在、中国は清の領土を引き継ぎ、漢民族ほか計56の民族を「中華民族」とみなしている。現代中国が抱える民族問題は、清の判図拡大に始まっているといえる。
ではまた、ごきげんよう。