世界帝国を築いたモンゴル(元)だったが、やがて不安定になり、明が建国される。
また、そのころ日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵も行われた。
その明や秀吉の朝鮮出兵について、「明の建国」、「明の判図拡大」、「国内外に苦しむ明」、「秀吉の朝鮮出兵」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 明の建国
- 明の判図拡大
- 国内外に苦しむ明
- 秀吉の朝鮮出兵
年表
いつ | できごと |
---|---|
1351年 | 紅巾の乱始まる。 反乱軍は紅い頭巾が目印 |
1368年 | 朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝 こうぶてい)が明を建国。元はモンゴル高原へ退く |
1405年 | 鄭和の大遠征はじまる。 別名、鄭和の南海大遠征 |
1449年 | 明・正統帝が土木堡でオイラトの捕虜に(土木の変) |
1550年 | タタールが北京を数日にわたり包囲(こうじゅつの変) |
1572年 | 張居正の財政改革がはじまる |
1592年 | 秀吉の朝鮮出兵(壬申戦争、文禄・慶長の役) |
明の建国
元王朝に対して各地で反乱が起き、仏教の一派・白蓮教徒が起こした「紅巾の乱」の指導者だった朱元璋は明を建国した。
明はひさびさとなる漢民族王朝の支配体制を整えるため、皇帝に権力を集中し、民衆の管理も徹底した。
明の判図拡大
都を南京に置いた明だが、永楽帝の時代に北京へ移し、巨大な紫禁城をつくった。
また、ベトナムやモンゴル遊牧民に対し遠征を行い、版図を広げた。
永楽帝は宦官の鄭和(ていわ)に大艦隊を預け、東南アジア・インド・西アジア、アフリカまで計7回にわたり派遣。
各国に朝貢を求め、交易を拡大した。
大航海時代より1世紀も早い、「鄭和の大遠征」で明の国力は世界に伝わった。
また永楽帝が宦官を重用したことから、宦官による政治支配がはじまった。
国内外に苦しむ明
永楽帝の没後、明は内憂外患(国内外の心配ごと)に苦しんだ。
北ではモンゴル系民族(タタール、オイラト)に侵攻され万里の長城の修築を急がねばならず、南では倭寇(海賊)を取り締まらなくてはならなかった。
国の財政は好調だった輸出に支えられていたが、軍事費の増大に伴い徐々に悪化。
14代・万歴帝の宰相・張居正(ちょうきょせい)が再建をはたすが、その死後は宦官と反宦官勢力(東林派)による権力争いが激しくなった。
秀吉の朝鮮出兵
豊臣秀吉は日本で天下統一後、明の征服をめざしてまず朝鮮半島に侵攻した。
国内外で混乱がある明が、さらに豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して朝鮮へ援軍をしたため負担が増え、明王朝はますます苦境に立たされた。
朝鮮は将軍・李舜臣(りしゅんしん)の水軍などで対抗した。
秀吉の死によって戦争は終結した。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 元王朝に対して各地で反乱が起き、白蓮教徒が起こした「紅巾の乱」の指導者だった朱元璋は明を建国。
- 永楽帝は宦官の鄭和(ていわ)に大艦隊を預け、東南アジア・インド・西アジア、アフリカまで計7回にわたり派遣。大航海時代より1世紀も早い、「鄭和の大遠征」で明の国力は世界に伝わった。
- 永楽帝の没後、明は北ではモンゴル系民族(タタール、オイラト)に侵攻され万里の長城の修築を急がねばならず、南では倭寇(海賊)を取り締まらなくてはならなかった。
- 国内外で混乱がある明が、さらに豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して朝鮮へ援軍をしたため負担が増え、明王朝はますます苦境に立たされた。
ではまた、ごきげんよう。