日清戦争の後、清は欧米の国々に領地を分割され、急速な植民地化が進んだ。
とくにロシアは、満州、遼東半島など多くの領地を奪い、日本の脅威となる中で勃発したのが日露戦争。
日本は大国ロシアに勝利をして国際社会での存在感を強めていったのがこの日露戦争。
そんな日露戦争について「きっかけやなぜ勝てたのか」が気になる。
また、「日本国内の意見対立」「日露戦争の推移」「ポーツマス条約」「日露戦争での日本の勝利の影響」についても学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 日露戦争のきっかけ
- 日本国内の意見対立
- 日露戦争の推移
- ポーツマス条約
- 日露戦争での日本の勝利の影響
年表
いつ | できごと |
---|---|
1895年 | 台湾総督府を設置 |
1897年 | 朝鮮が大韓帝国に国号を改める |
1898月 | 列強の清侵攻が加速し、中国分割が進む |
1900年 | 義和団事件を機に列強8か国が清に駐屯しはじめる |
1902年 | 日英同盟が締結され、日露開戦ムードに |
1904年 | 日露戦争がはじまり、遼東半島の旅順で両国が衝突 |
1905年 | 奉天会戦・日本海海戦で日本がロシアに勝利 |
1905年 | ポーツマス条約が結ばれ、日露戦争終結 |
日露戦争のきっかけ
清の領地を奪い、日本にとって脅威となっていたロシア。
一方日本は、清から手に入れた賠償金を軍隊の強化に使い、イギリスと日英同盟を結ぶ。
イギリスとしてもロシアは長年の敵であり、敵の敵である日本と手を組んだ。
日本としては、イギリスの監視で他国の動きを封じてロシアとの戦いに集中できる思惑があった。
日英同盟を結んだことによりロシアとの対立が明確化し戦争ムードになった。
日本国内の意見対立
日本国内は一枚岩となって日英同盟を結んだわけではなかった。
伊藤博文を筆頭とするロシアは大国で強いため、戦争ではなく話し合いをしようとする日露協商派。
桂太郎を筆頭とするイギリスと手を組んでロシアと戦争しようとする日英同盟派で対立した。
日露戦争の推移
旅順での戦闘 1904年2月~1905年1月
遼東半島の旅順には、ロシアの艦隊の基地があり、日本軍は陸と海からこの街を攻撃した。
奉天会戦 1905年3月
両軍を合わせて、約60万人の兵士が戦った。
日露戦争の最大の戦い。
日本はこの戦いになんとか勝利する。
日本海海戦 1905年5月
敵の前で船の向きを変える「丁字戦法」で、東郷平八郎の指揮する艦隊がロシアのバルチック艦隊をやぶった。
ポーツマス条約
日本は戦力を出し尽くし、ロシアでは国内で内乱が起きたため、両国は講和することになった。
ポーツマス条約の内容は以下。
・日本の韓国における支配を認める
・旅順・大連を日本にわたす
・北緯50度以南の樺太を日本にわたす
・南満州鉄道の利権を日本にわたす
・沿海州・カムチャッカ半島での漁業権を日本にわたす
日露戦争での日本の勝利の影響
日露戦争は、アジアの小国である日本が、強大な国家ロシアに勝利するという、これまでにない結果となった。
ヨーロッパの国々による植民地支配に苦しめられていた、当時のアジアやアフリカの人びとは「自分たちも西洋人に勝てるかもしれない」と勇気づけられた。
中国では孫文が清朝打倒をめざして中国同盟会を発足。
インドでは独立運動が活発になった。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 日露戦争のきっかけは、ロシアの長年の敵であるイギリスと日本が日英同盟を結びロシアとの対立が明確化したから
- 日本国内では、伊藤博文らの日露協商派と桂太郎らの日英同盟派で対立した。
- 日露戦争は、旅順での戦闘、日露戦争の最大の戦いである奉天会戦、東郷平八郎の艦隊がロシアのバルチック艦隊をやぶった日本海海戦と推移した。
- 日本は戦力を出し尽くし、ロシアでは国内で内乱が起きたため、両国は講和し、ポーツマス条約を結んだ。
- 日露戦争で小国である日本が勝利したことは、ヨーロッパの国々による植民地支配に苦しめられていた、当時のアジアやアフリカの人びとを勇気づけることになった。
ではまた、ごきげんよう。