江戸幕府の4代将軍 徳川家綱、5代将軍 徳川綱吉
徳川家綱、徳川綱吉が何をしたのかについて、学校で習ったかもしれないが、完全に忘れているので今一度知りたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 徳川家綱はどのように4代将軍になった?
- 4代将軍・家綱時代の変化とは?
- 5代将軍・綱吉の「生類憐みの令」とは?
- 綱吉の政治の光と闇
- 花開いた元禄文化とは?
年表
いつ | できごと |
---|---|
1651年 | 3代・家光が死去。4代・家綱が征夷大将軍に就任 |
1651年 | 慶安事件が起こるなど情勢が悪化。末期養子の禁止緩和を行う |
1657年 | 明暦の大火で江戸の町の6割と、江戸城が消失 |
1680年 | 4代・家綱が死去。5代・綱吉が征夷大将軍に就任 |
1685年 | 「生類憐みの令」を発布。次第に内容が過激になっていく |
1695年 | 元禄の貨幣改鋳。粗悪な小判が増え、インフレが起こる |
1702年 | 赤穂浪士の討ち入りが起こり、日本中に衝撃を与える |
徳川家綱はどのように4代将軍になった?
1651年に3代将軍・徳川家光が死去し、家光の子・家綱が4代将軍に就任した。
まだ11歳だった家綱の代わりに、改革を進めたのが家光の異母弟の保科正之(ほしなまさゆき)。
家光時代の武断政治から、儒教にのっとった道徳を重んじた法制度を整え、文治政治をはじめた。
4代将軍・家綱時代の変化とは?
末期養子(まつごようし)の禁止を緩和
末期養子の禁とは、死の直前に家の当主が養子を取ることを禁じた法。
後継ぎのいない家はつぶれてしまうため、家綱の時代にこれを緩和した。
江戸城天守再建を中止
大火事で江戸城の天守が焼けてしまった。
城は権威の象徴だったが、これ以上誇示する必要はないと、以降再建されなかった。
殉死の禁止
主君が亡くなったとき、後をおって自害することが殉死。
優秀な人材を失わないために、殉死を禁止した。
玉川上水の整備
江戸の人口が増えたため飲み水が不足。
江戸の西を走る多摩川から水を引くため上水路をつくり、江戸の飲み水を確保した。
5代将軍・綱吉の「生類憐みの令」とは?
生類憐みの令のおもな内容
- 将軍御成りの道中でも犬猫は自由でよい
- 捨て子や捨て老人、捨て牛馬を禁ず
- 鷹狩を禁ず
- 犬の殺生を禁ず
- 金魚や昆虫などを飼ってはならぬ
- 生類を販売してはならぬ
- 傷ついた犬は犬医者へ連れていくこと
暴走する綱吉の暴走
綱吉の代名詞となっている「生類憐みの令」。
はじめは、捨て子や病人を見捨てないための法令だったが、次第に綱吉の理想が暴走。
蚊を殺して流罪、ツバメを殺して死刑、犬を保護し過ぎて予算不足、などのエピソードがあり、綱吉が亡くなるとすぐに「生類憐みの令」は廃止された。
綱吉の政治の光と闇
儒学を愛し学問を広める
綱吉は儒学を学び、その思想に大きな影響を受けた。
学問を重要だと思っていた綱吉は、武士だけでなく庶民にも広く学問をすすめた。
湯島聖堂は、綱吉が儒学を推奨するために上野から湯島に移建させたもの。
潔癖すぎて世の中が混乱
学問を愛し、生き物を大切にする一方で、理想が高すぎる綱吉の政治は、「生類憐みの令」など、世の中の混乱を招いた。
また、幕府が財政難に陥っていたため、粗悪な貨幣を鋳造して物価が高騰したり、庶民の生活は苦しいものとなった。
花開いた元禄文化とは?
芸術・文化の流行
5代将軍・綱吉の時代は、元禄文化が花開いた時代。
井原西鶴をはじめとした作家が活躍し、歌舞伎や人形浄瑠璃が町人の間で人気になり、庶民の生活を描いた浮世絵が流行。
経済の発展
商人が公共事業を請け負って大きな利益をあげるなど、経済も発展した。
しかし、綱吉は庶民が贅沢し過ぎることを懸念して、過度な贅沢を禁じる方を出したりした。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 徳川家綱は、父・家光の死去により、11歳で4代将軍となり、政治の改革は保科正之がおこなった
- 4代将軍・家綱時代は、末期養子の緩和、江戸城天守再建中止、殉死の禁止、玉川上水の整備など財政や庶民の生活を考えた政策が推進された
- 5代将軍・綱吉の「生類憐みの令」は、捨て子や病人を見捨てないための法令だったが、綱吉の理想が暴走し、行き過ぎた法令となっていた
- 綱吉は、庶民のために学問を広げる一方、生類憐みの令や、粗悪な貨幣鋳造により庶民を混乱もさせた
学校で習ったものだけでなく、改めて学習することで歴代将軍に見え方も変わってきて面白い。
ではまた、ごきげんよう。