平氏と源氏の戦いと平氏の政権 楽しい日本史 -武士による支配- 11.

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武士の力が強まり、平治の乱で平氏の地位が上がる。さらに平清盛は太政大臣までのぼりつめる。
平清盛がすごいのは知っていたが、どうやって武士がはじまって平氏と源氏がどんな関係でどんなながれで上りつめたかを改めて知ることで源氏との戦いがより深くしることができて面白い。

ポイント

  • 武士がどうやって勢力を伸ばしたか
  • 平氏がなぜ台頭したか
  • 平氏と源氏の関係
  • 平清盛はどこまで上りつめたか
  • 平家と朝廷の争い

年表

いつできごと
1133年平忠盛(清盛の父)が日宋貿易をはじめ莫大な利益を得る
1135年平忠盛・清盛親子、西国の海賊を平定
1156年鳥羽上皇が崩御する。保元の乱が起こり後白河天皇方が勝利
1159年平治の乱で平氏と源氏が対立、平氏が勝利する
1167年清盛、武士として初めて太政大臣になる
1177年打倒平氏が計画されるも事前に発覚(鹿ケ谷の陰謀)
1180年清盛の孫である安徳天皇が即位

平氏の台頭

武士は貴族の警備を行いながら、戦乱の中で勢力をのばした。摂関政治から院政の時代になると、藤原摂関家とのつながりの強い源氏は衰え、瀬戸内海の海賊を平定するなど功績があった平氏は鳥羽上皇に信頼され、厚く用いられた。

武士の力が強まった戦い

保元の乱(1156年)

崇徳天皇と後白河天皇の対立に、藤原摂関家の継承争いがからんだ戦い。後白河天皇は藤原忠道や平清盛、源義朝を動員して崇徳天皇派を破る。保元の乱は武士が初めて政治に深く関わった戦で、これから700年続く武家政権のきっかけになったといわれている。

平治の乱(1159年)

保元の乱後、上皇となった後白河上皇による院政がはじまる。しかし藤原通憲(信西)が政治を独占したため、通憲に反発した源氏が襲撃。平清盛は源義朝と戦って勝利し、中央政界での平家の地位を高めた。源義朝の子・頼朝は、死刑になるところを清盛に許されて伊豆に流された。

太政大臣 平清盛

平清盛は貴族の最高位である「従一位太政大臣」にのぼりつめた。これは武士史上初のこと。同時に平家一門の多くが高位高官につき、まさに敵なしの状態になった。さらに清盛は娘の徳子を高倉天皇の皇后にし、その間に安徳天皇が生まれると、天皇の外戚としてさらに権勢をふるった。

官位独占

平家は高位高官を独占。さらに地方武士を仲間に入れて武士団を掌握した。

貿易収入

航路を整備し、日宋貿易を開始。宋銭を大量に輸入し、貨幣経済を発展、私有地からの収入とあわせて巨万の富を得た。

後白河上皇の幽閉

権勢をふるう平氏と、後白河上皇を中心とする貴族たちの間で対立が深まり、ついに清盛は後白河上皇を幽閉、院政を停止させた。しかしかえって反平氏勢力が強まるきっかけとなってしまう。

安徳天皇の即位

清盛は孫の安徳天皇を3歳で即位させて天皇の外祖父になる。安徳天皇の父・高倉上皇による院政を進めた。そして後見人として事実上の最高権力者となった。

あとがき

日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。

ではまた、ごきげんよう。

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