戦国時代の中国・四国地方、九州地方の変遷
中国地方では毛利元就が、四国地方では長宗我部元親が勢力を拡大。九州地方では三つ巴の勢力から島津義久が領地を拡大。各地でも戦乱が起きていた戦国時代。
ポイント
- 中国地方はどうなっていた
- 四国地方はどうなっていた
- 九州地方はどうなっていた
- 毛利元就の活躍
- 長宗我部元親の活躍
- 島津義久の活躍
- 信長・秀吉の脅威
年表
いつ | できごと |
---|---|
1540年 | 吉田郡山城の戦いが起こり、毛利軍が尼子軍を撃退する |
1555年 | 厳島の戦いで毛利軍が陶軍を破り、勢力を拡大する |
1566年 | 月山富田城の戦いが終結し、尼子家が滅亡する |
1575年 | 四万十川の戦いで、長宗我部元親が一条兼定を下す |
1584年 | 沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津義久に敗れる |
1585年 | 元親が四国統一を目前にして、秀吉政権に屈する |
1587年 | 島津が九州を掌握しつつあったが、秀吉により平定される |
中国・四国地方の変遷
中国地方では、尼子家と大内家の二大勢力が争っていた。その間で台頭したのが毛利元就。一方、四国地方は長らく全土に影響力を及ぼすような大名がおらず、1585年頃にようやく長宗我部元親が四国のほとんどをおさめた。
大内家の支配と毛利元就の活躍(1540年頃)
尼子家と大内家のほかに、中国地方には小豪族がたくさんいた。毛利家もそのうちのひとつで、はじめは尼子家の味方だったが、元就が当主になると大内家につき、吉田郡山城の戦いで尼子家を破った。
毛利家の躍進と停滞の四国(1565年頃)
大内義隆と、その家臣・陶晴賢の間で争いが起こると、元就はこれに乗じた。厳島の戦いで陶軍に勝利すると、続いて尼子家も滅ぼした。一方、四国地方では長宗我部家が少しずつ存在感を増していった。
信長の影(1579年頃)
元就の死後も、毛利家は中国の覇者として君臨し続けた。四国では、長宗我部元親が土佐の統一を成し遂げた。以降、四国統一の一歩手前まで、元親の躍進は進むが、豊臣秀吉に阻まれることになった。
九州地方の変遷
九州地方で特に力をのばした勢力は、龍造寺家、大友家、島津家の3つの大名家。周囲の小豪族を味方につけたり、下剋上で領地を拡大した。しかし、ここでも大名家が統一する前に、豊臣秀吉の躍進によって情勢が一変した。
大友家が力を誇った時代(1551年頃)
中国地方の覇権を争っていた大内家が、北九州にまで勢力をのばしていた。大友家は旧家として、隣国の大名家に頼られる存在で、貿易などを通じて利益をあげた。南では島津家が力をたくわえていた。
三つ巴の九州三国時代(1583年頃)
龍造寺家、大友家、島津家の3つの勢力が、たがいに争いをはじめた。龍造寺隆信はもともと大内家と結んでいたが独立し、大友、島津と対立。1584年の沖田畷の戦いで島津家に破れ衰退していった。
島津家の拡大と迫る秀吉(1585年頃)
島津義久の活躍によって、島津家の領地は過去最大にまで広がった。大友宗麟は領地を狭めながらも家を守っていたが、ついに島津の侵攻に屈し、秀吉の家臣となることで領地の安堵を願い出るにいたった。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。