ロシアの南下を防ぐため朝鮮へ進出しようとした日本と朝鮮を属国にしていた清が衝突した日清戦争。
そんな日清戦争について「きっかけやなぜ勝てたのか」が気になる。
また、「朝鮮の開国」「清との対立」「下関条約」「三国干渉」についても学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 朝鮮の開国
- 清との対立
- 下関条約
- 三国干渉
年表
いつ | できごと |
---|---|
1876年 | 日本にとって有利となる日朝修好条規が結ばれる |
1882年 | 朝鮮で親清派の事大党が政権をにぎり、日清の対立が激化 |
1884月 | 親日派の独立党が朝鮮でクーデターを起こすも失敗 |
1885年 | 福沢諭吉が「脱亜論」を発表する |
1894年 | 朝鮮で農民の大規模反乱が発生 |
1894年 | 農民の反乱(甲午農民戦争)がきっかけで日清戦争が勃発 |
1895年 | 日清戦争で日本が勝利し、下関条約が結ばれる |
1895年 | 三国干渉で下関条約の一部内容が変更 |
朝鮮の開国
朝鮮は鎖国政策をとっていた。
しかし、1876年に日本との間で日朝修好条規がきっかけとなり、開国することになった。
日朝修好条規は、日本にとって有利な不平等条約だった。
社会と経済の急速な変化は、朝鮮国内に大きな混乱を引き起こした。
清との対立
この時期のロシアは不凍港(冬でも凍らない港)を追い求め、清の東北部の海に面するウラジオストックなどの地域を奪っていた。
日本は、朝鮮が清の属国のままではどんどん南下してくるロシアに対抗できないのではないかと考えていた。
朝鮮国内では、朝鮮の近代化と清からの独立を目指す開化派(独立党)と事大党(朝鮮の王妃の一族)が激しく対立していた。
日本は開化派を、清は派事大党をそれぞれ支持して対立関係となった。
朝鮮で農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清は軍隊を送り鎮めようとした。
一方、日本も自国民を保護するため、農民側を支援する軍を出動させた。
この反乱が収まると、今度は清と日本が朝鮮の支配をめぐっての戦争(日清戦争)をはじめた。
下関条約
清軍の数は日本軍の倍以上だったが、近代化していた日本は強く、武器や指揮の差で、日本軍が圧勝した。
勝利した日本は清との間で下関条約を結ぶ。
内容は、「遼東半島などの領地をわたす」「2億両の賠償金」「不平等条約を結ぶ」「日本のために港を開く」「朝鮮の独立を認める」という日本に有利なものだった。
三国干渉
ロシアがフランスとドイツを誘って日本の清への支配を妨害したため、手に入れた領地のうち、遼東半島を返却することになった。これを、三国干渉という。
この結果、清はロシアに遼東半島、ドイツに山東半島、フランスに広州湾を渡すことになった。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 朝鮮は、日本と不平等条約である日朝修好条規を結び、開国することになった。
- 朝鮮国内で近代化と清からの独立を目指す開化派(独立党)と事大党(朝鮮の王妃の一族)が対立し、日本は開化派を、清は派事大党をそれぞれ支持して対立関係となっていた。
朝鮮での農民反乱(甲午農民戦争)をきっかけに、清と日本が朝鮮の支配をめぐって日清戦争が勃発。 - 近代化していた日本は強く、武器や指揮の差で日本軍が圧勝し、清との間で不平等条約となる下関条約を結んだ。
- ロシアがフランスとドイツを誘って三国干渉を行い、日本の清への支配を妨害し、手に入れた遼東半島を返却することになった。
ではまた、ごきげんよう。