藤原道長 朝廷を操り権力を手にした優雅な男 楽しい日本史 -偉人編- 06

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出世して日本一の権力を握った藤原道長についての以下のような疑問を学習する記事。

  • 藤原道長は何をした人?
  • 藤原道長はどうやって強い権力をもったのか
  • 藤原道長はどんな人?
  • 藤原道長の歌とは

藤原道長の情報

時代平安時代
身分貴族・摂政
出身地京都
別名御堂関白
生没年966~1027年

時代背景

藤原道長のすごさ

なぞの自信

当時は親の後を継ぐのは長男と決まっていて、66代 一条天皇の摂政・藤原兼家の5番目の子供だった道長は、そもそも藤原家を継ぐ権利すらなかった。でも、道長はなぞの自信で出世する気まんまんだった。
ある時、兼家が仕事のできる他の貴族とその息子をみて「うちの息子たちは彼の息子のかげも踏めないだろうな」とぼやいたところ、道長は「かげが踏めないなら顔をふんでやりましょう」と言い切ったそう。

チャンスと作戦

その後、兄たちが急死して道長のもとに権力が転がり込む。そしてすごい作戦を考える。日本で一番権力を持つ天皇と親戚になることで自ら権力を持つというもの。

作戦大成功

66代 一条天皇と娘の彰子を結婚させ、正妻として「皇后」にした。また、その後も含めて他の娘も天皇に嫁がせ(67代 三条天皇の妻、68代 後一条天皇の妻、69代 後朱雀天皇の妻)て権力を拡大していった。こんなにうまくいくとは相当強引な手を使ったのか、娘たちが美人だったのだろう。
さらに、言うことを聞かない67代 三条天皇を退位させ、自分の孫となるわずか9才の後一条天皇を68代天皇に即位させる。天皇のおじいさんとなった道長に逆らえる人はもはや誰もいない。ゆるぎない権力を手にするのだった。

藤原道長ってじつは・・・

すぐ監禁

自己中エピソードとして、23才のころ、友人が役人採用試験で不合格になったので試験管をさらって監禁し、合格させろと脅迫。この件は父の兼家に怒られて、しばらくは監禁エピソードはないが、父が死んだ後、48才の時に妻のおでかけ準備に時間がかかりすぎたという理由で貴族二人を自宅の小屋に監禁した。監禁好きな人。

平安京を壊す

52才のとき、自宅の庭に大岩を置きたいために、平安京をぶち壊すエピソードもある。道長の部下たちはじゃまな民家をなぎ倒し、その柱や壁を略奪。たまたま道を歩いていた通行人までもむりやり岩運びをさせられた。岩を置きたいとか知らないよ。自己中すぎるでしょ。

イケイケな歌

同じく52才のとき、娘・威子が68代 後一条天皇の妻になる。孫の妻に娘をってどうゆうことになっているのか。という感じですが。とうとうてっぺんをとった道長はあの有名な歌をよむ。
「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
しかし、この直後に道長は病気で倒れる。贅沢しすぎて糖尿病といわれている。さらに、娘2人も相次いで病死すると後を追うように道長も亡くなった。時の権力者の栄華はずっとは続かず儚いものだ。

あとがき


偉人に興味を持ち、その人物軸で時代背景や文化、歴史についても興味が持てればもっと楽しく学べると思う。

ではまた、ごきげんよう。

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