未だに謎の多い邪馬台国やヤマト政権の大まかな流れ
邪馬台国という国があって卑弥呼という女王がいたらしいというのは日本の歴史書は存在しないから中国の歴史書が根拠になっている。中国の古代の文明がすごすぎる。
天皇のはじまりなど日本の根源がうまれた古代だが、未知な部分がおおく興味深い
ポイント
- 邪馬台国とは
- 邪馬台国ってどこ
- 中国の歴史書からしか情報がない
- 空白の4世紀
- 天皇のはじまりとは
- ヤマト政権とは
年表
いつ | できごと |
---|---|
57年 | 倭の奴国王、光武帝から「漢委奴国王」の印を授かる |
2世紀後半 | 倭国大乱が起こり、卑弥呼が女王となるまで争いが長年続く |
200年頃 | 倭の諸国、女王・卑弥呼を立て邪馬台国を中心に連合 |
239年 | 卑弥呼、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡を受ける |
248年 | 卑弥呼と同じ、巫女である壱与が邪馬台国の女王となる |
266年 | 壱与が晋に使いを送る。 (以降、書物による倭の記録なし) |
4世紀 | <空白の4世紀> |
478年 | 倭王・武(雄略天皇)、宋に使者を派遣 |
おもな人物
中国の歴史書による日本
中国大陸では紀元前200年頃に漢が成立し、紀元前100年頃から勢力を朝鮮半島にも広げ、日本の事を「倭」と呼んでいた。この時代から日本と中国の交流がはじまり、中国の歴史書に日本の事が記された。
『漢書』「地理志」
日本が100余りのクニに分かれていたと記される
『後漢書』「東夷伝」
57年に奴国王が後漢皇帝から倭国王の証の金印をもらったと記させる
『魏志』「倭人伝」
倭で大きな騒乱が続いていたこと、倭の王たちが邪馬台国の卑弥呼を立て、邪馬台国を中心とする約30国の連合体になったことが記される
卑弥呼は239年に魏に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡をもらう。邪馬台国には身分の差や政治のルール、刑罰の制度があり、税が徴収され、交易も行われていた。
邪馬台国はどこにあったのか?
邪馬台国の位置はわかっていない。これは『魏志』「倭人伝」の記述に従うと、邪馬台国が太平洋の上に存在することになってしまうからである。現在は記述が間違っていたと考えられ、畿内(奈良県)説か九州説で意見が分かれている。
畿内説
『魏志』「倭人伝」は方角が間違っていて、南ではなく東に進むのが正解。邪馬台国に匹敵する弥生時代の大きな遺跡も奈良県で見つかっている。その後のヤマト政権ができたのも奈良県である。
九州説
方角でなく、距離が間違っていて、吉野ケ里遺跡が邪馬台国の遺跡で、九州にあった邪馬台国が近畿に移ってヤマト政権になった。2019年に大分県で発見された鏡が魏の鏡とそっくりである。
空白の4世紀
邪馬台国以降の約150年間、中国の歴史書に日本のことが記されておらず、この頃の日本の様子は謎に包まれている。これを「空白の4世紀」と呼んでいる。
ヤマト政権の勢力
4世紀中ごろまでに大王(天皇)ひきいるヤマト政権(のちの朝廷)が、大和(奈良県)から全国へ勢力を拡大した。その証拠として、ワカタケル大王(雄略天皇)の名前が刻まれた鉄剣が、遠くはなれた関東や九州の古墳から発見されている。
ヤマト政権は鉄資源を求め、高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた朝鮮半島にも向かった。そして百済とつながり、加耶を拠点とする。4世紀後半には倭国と百済が協力して高句麗と戦ったことが「好太王碑」(高句麗の好太王の業績をたたえた碑)に記されている。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。