・不凍港獲得のため南下政策を進めるも失敗し東方へ進出
・クリミア戦争敗北で近代化の必要性を痛感し、改革を実行
・改革の不徹底と専政への不満が高まり社会主義が進む
このロシア政策について、「ロシア国内」、「ロシアの外交」、「南下政策と東方進出」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- ロシア国内
- ロシアの外交
- 南下政策と東方進出
年表
いつ | できごと |
---|---|
1815年 | 皇帝アレクサンドル1世、ウィーン会議でポーランド王位を取得 |
1830年 | ポーランド蜂起(ほうき)が起き、武力で鎮圧 |
1853年 | クリミア戦争に敗北。東方進出に転換 |
1860年 | 北京条約締結。東アジアに進出する |
1861年 | 近代化をめざして農奴会法令を発布する |
1873年 | ヒヴァ=ハン国の保護国化。中央アジアへ進出 |
1881年 | テロリズムが台頭し皇帝アレクサンドル2世が暗殺される |
1898年 | ロシアでロシア社会民主労働党が結成される |
ロシア国内
専制が強く残るロシアでは、指導者主導の改革が進められた。
しかし半端に終わり、改革の担い手だった知識人が、専制を強化するアレクサンドル2世を暗殺。
外国資本を導入すると経済上の平等を求める労働者や農民が、革命を起こした。
ロシアの外交
凍らない港「不凍港」の獲得と、勢力の拡大をめざすロシアは、オスマン帝国の衰退と、独立運動の活性化で不安定な中東へ積極的に干渉。
クリミア戦争で敗れると、アジア(東方)進出に転換し日本と対立した。
南下政策と東方進出
不凍港を求めるロシアは、しきりに南下を企てた。
クリミア戦争以降に対立したイギリスとは、アジア(東方)進出後もにらみ合いを続け、ウラジヴォストーク港を開いたあとは朝鮮支配をめぐり日本と対立を深めた。
まとめ
今回の内容をまとめると
- ロシア国内では専制を強化するアレクサンドル2世が知識人に暗殺され、外国資本を導入すると経済上の平等を求める労働者や農民が、革命を起こした。
- ウィーン体制で国際社会の柱となったロシアだが、工業化に遅れ、政治的、経済的にも西欧に取り残された。海外進出のために凍らない港を求めて南下した。
- クリミア戦争以降、イギリスとはアジア(東方)進出後もにらみ合い、ウラジヴォストーク港を開いたあとは朝鮮支配をめぐり日本と対立を深めていった。
ではまた、ごきげんよう。