鎌倉幕府と執権の始まり、朝廷と幕府の戦い承久の乱までの流れ。
鎌倉殿の13人の時期について改めて知るとなかなかの殺し合いと権力争いが起きていた。鎌倉幕府はこんなに激しいなんて知らなかった。勉強しながら大河ドラマをみるのも楽しい。
ポイント
- 鎌倉幕府はどうやってできた
- 2代目、3代目将軍はだれ
- なぜ執権が北条氏になった
- 承久の乱とは
年表
いつ | できごと |
---|---|
1192年 | 源頼朝、征夷大将軍となり、名実ともに鎌倉幕府が開かれる |
1199年 | 頼朝が没し、頼家が2代将軍になる |
1203年 | 比企の乱で頼家幽閉。実朝が3代将軍、北条時政が執権就任。 |
1205年 | 北条義時が2代目執権になる |
1219年 | 実朝が暗殺され、源氏の正統が断絶 |
1221年 | 承久の乱で後鳥羽上皇が挙兵。幕府の勝利 |
1232年 | 武士のための法令として御成敗式目が制定される |
おもな登場人物
日本初 武家政権・鎌倉幕府
平家滅亡後、源頼朝は幕府に背いた弟の義経を討伐、義経をかくまった奥州藤原氏も滅ぼし、武家の棟梁としての地位を確立した。そして朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開いた。日本初の武家政権であり、江戸幕府が滅ぶまでの約600年間、武士の世が続く。
御恩と奉公
鎌倉幕府は御家人が幕府に貢献(奉公)すると、将軍は御家人に領地を与える(御恩)という主従関係によって支配を強めた。幕府の目の届きにくい地方には守護・地頭を設置し、監視を強めた。
北条氏と執権
2代将軍・頼家は、妻の実家である比企氏と北条氏の争いに巻き込まれ殺されてしまう。北条氏は頼朝の弟・実朝を3代将軍にし、北条時政が執権となった。3代将軍・実朝は和歌などの教養を活かして朝廷と幕府の仲を取り持とうとしていたが、暗殺される。源氏が3代で滅ぶと北条義時が2代目執権となり、他の有力御家人を退けながら、代々北条家が執権を受け継ぐ地盤をつくった。
公武二元体制
鎌倉幕府は東国(東日本)を中心に、将軍と御家人の主従関係を軸とした支配体制をとっていた。しかし、京都では天皇を中心とする公家勢力もいまだに大きな力を持っていた。そしてついに後鳥羽上皇は北条義時追討の命令を出す。
承久の乱
後鳥羽上皇の義時追討命令に対し、頼朝の妻・北条政子は東国の御家人を説得、一致団結した幕府軍が上皇を破る。(承久の乱)2代執権・義時は、また朝廷が鎌倉幕府打倒を計画しないように、京都に六波羅探題を設置して監視を厳しくし、乱に敗れた後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇を配流した。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。