戊辰戦争のきっかけ はじまりをわかりやすく 楽しい日本史 -近代国家への道-

EDUCATION

新政府軍と旧江戸幕府軍の衝突である戊辰戦争

そんな戊辰戦争について「そもそものきっかけとは?」が気になる。

また、「新政府軍の戦略」「戊辰戦争の出来事とは」「新撰組はどうなったのか」についても学んでいきたい。

そこで、今回の内容はこちら

  • 戊辰戦争のきっかけ
  • 新政府軍の戦略
  • 戊辰戦争の出来事
  • 新撰組はどうなったのか
格安航空券モール typeの人材紹介

年表

いつできごと
1868年1月鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争がはじまる
1868年3月甲州勝沼の戦いで新鮮組ら旧幕府軍が新政府軍に敗北
1868年3月西郷隆盛と勝海舟が会談を行い、江戸城無血開城が決まる
1868年5月上野に旧幕府勢力が集まり新政府軍と交戦(上野戦争)
1868年5月榎本武揚らが蝦夷地に上陸。蝦夷地共和国を樹立する
1868年8月会津戦争がはじまる。
開戦翌月の9月に会津軍が降伏
1869年5月土方歳三が戦死。榎本武揚らが降伏し戊辰戦争が終結
保険コネクト

戊辰戦争のきっかけ

王政復古の大号令」が発せられ、徳川家は官位と領地を奪われた

これに反発したのが、幕臣や佐幕派諸藩の藩士たち。
対して、討幕派を先導していた薩摩藩や長州藩は、旧幕府を挑発する行動をとり、戦争によって決着をつけようとした。

そして1868年1月3日、京都で薩摩藩率いる新政府軍と、旧幕府軍が衝突(鳥羽・伏見の戦い)し、戊辰戦争がはじまった。

種類3

新政府軍の戦略

新政府軍は、薩摩藩、長州藩、岩倉具視などを中心とした兵力約4500人
旧政府軍は徳川慶喜、会津藩、桑名藩、旗本・御家人などを中心とした兵力約15,000人

兵力は旧幕府の方が優勢に思われたが、新政府軍は自分たちが朝廷に認められた軍だという証として「錦の御旗」を掲げた。

旧幕府軍は自分たちが朝敵となっていることに大きく動揺し、また様子をみていた諸藩も朝廷は新政府軍の味方なのだという思っていった。

これにより大きく戦況は新政府軍に傾いていった。

戊辰戦争の出来事

戊辰戦争は全国各地で戦いが繰り広げられた。

はじまりとなったのは、1868年1月 鳥羽・伏見の戦い
大坂城にいた徳川慶喜はひっそりと江戸へ逃げる。

1868年3月 甲州勝沼の戦い
新撰組ら旧政府軍が新政府軍に敗北。

1868年3月 西郷隆盛と勝海舟が会談により、江戸城無血開城する。

1868年5月 上野戦争
上野に旧政府軍勢力が集結し、新政府軍と激突。

長岡城の戦い
長岡城は新政府軍の手により落城したが、奥羽越列藩同盟軍が集結し、新政府軍と対峙する。

1868年8月 会津戦争
開戦の翌月には会津藩が降伏。

1869年5月 函館戦争
戦線は北海道まで北上し、榎本武揚らが蝦夷地に蝦夷地共和国を樹立する。
新政府軍に対抗するが、新撰組の土方歳三が戦死し、榎本武揚らも降伏。
戊辰戦争終結

新撰組はどうなったのか

幕末に活躍した剣客集団・新選組

局長・近藤勇、副長・土方歳三、沖田総司といった面々が、治安維持のために京都で活動していおり、
戊辰戦争では旧幕府軍として参戦

しかし、近藤は捕らえられて処刑され、沖田は病死。
土方は残った隊士とともに蝦夷に渡り、戦死した。

幕府のために死んでいった同志たちのために新撰組は最後まで戦い続けた

まとめ

今回の内容をまとめると

  • 戊辰戦争のきっかけは、王政復古の大号令により官位と領地を奪われた旧幕府軍と薩摩藩・長州藩の新政府軍が衝突した鳥羽・伏見の戦い。
  • 新政府軍は、自分たちこそが朝廷に認められた軍だという証として「錦の御旗」を掲げ、旧幕府軍は自分たちが朝敵となっていることに大きく動揺させ、これにより大きく戦況は新政府軍に傾いた。
  • 戊辰戦争は、全国各地で旧幕府軍VS新政府軍の戦いが繰り広げられ、最終的には北海道まで戦線は北上し、榎本武揚らが樹立した蝦夷地共和国の制圧をもって終結した。
  • 新撰組は戊辰戦争で旧幕府軍として参戦し、幕府のために死んでいった同志たちのために新撰組は最後まで戦い続けた。


ではまた、ごきげんよう。

タイトルとURLをコピーしました