院政がはじまり上皇が大きな権力をもっていく。その裏で武士の武力も侮れないものになっていく。
朝廷の中でマウントポジションをとっていく世界観が恐ろしいし、白河上皇のお抱えの武士団をもつなど職権乱用がハンパない
ポイント
- 脱藤原氏の改革
- 院政とは
- 北面の武士とは
- より強くなる武士勢力
年表
いつ | できごと |
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1069年 | 後三条天皇、荘園を整理するため、延久の荘園整理令を出す |
1072年 | 後三条天皇が基準となる宣旨枡を制定 |
1086年 | 白河天皇、子の堀河天皇に譲位して上皇になる |
1095年 | 比叡山の強訴に対抗して、白河上皇が北面の武士を設置 |
1103年 | 白河上皇の孫で堀河天皇の子が天皇となる(鳥羽天皇) |
1123年 | 白河上皇の曾孫で鳥羽天皇の子が天皇となる(崇徳天皇) |
1124年 | 藤原清衡が中尊寺金色堂をつくる |
脱・藤原氏
11世紀後半、政治は転換期をむかえた。関白・藤原頼道の娘に男子がうまれなかったため、藤原氏の娘を母としない後三条天皇が即位し、藤原氏に遠慮することなく、政治改革を行った。
荘園整理令
後三条天皇の政治改革として、まず荘園整理令を出し、貴族や寺社の荘園と、国司が支配する公領を再編成。宣旨枡という軽量の基準となる枡もつくった。
後三条天皇は記録荘園券契所をつくり、大寺社や藤原氏の荘園も、例外なく摘発した。こうして皇室には、膨大な数の荘園が寄進された。
白河上皇の院政
白河天皇も後三条天皇にならい、親政を行う。1086年に8歳の堀河天皇に位を譲ると、白河上皇になって院政を行った。
院政とは
上皇が天皇の後ろ盾となって、政治の実権をにぎること。院(上皇のいる場所)から出される院長下文や、院宣(上皇自身の命令書)がもっとも力を持つようになった。
子だけでなく孫の後ろ盾となって院政をつづけることもあった。
白河上皇の権力
白河上皇は「鴨川の反乱と双六の目、延暦寺の僧兵だけは思い通りにならない」と嘆いたと言われる。つまりこれ以外の事はすべて思い通りになったということ。官職の任命や位階の授与など、いのままに政治を行った。自ら建立した法勝寺には、高さ80m以上の九重塔を建てたほど。
北面の武士
白河上皇は出家して法皇になると、悩みの種であった僧兵たちの強訴から内裏を守るため、院直属のボディーガードとして北面の武士を創設。この北面の武士からのちに政権を掌握する平氏や源氏などの武士の中心となる一族が登場した。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。