・ナポレオンの戦争後の国際秩序、ウィーン体制が確立
・七月革命を皮切りに各地で反乱が勃発し弾圧される
・二月革命、三月革命が起こりウィーン体制が崩壊する
このウィーン体制について、「ウィーン体制の背景」、「ウィーン体制の成立」、「ウィーン体制の動揺」、「ウィーン体制の崩壊」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- ウィーン体制の背景
- ウィーン体制の成立
- ウィーン体制の動揺
- ウィーン体制の崩壊
年表
いつ | できごと |
---|---|
1814年 | メッテルニヒを議長としたウィーン会議が開かれる |
1815年2月 | ナポレオンがエルバ島を脱出 |
1815年6月 | ウィーン議定書が調印されウィーン体制が成立する |
1830年7月 | フランスで七月革命が勃発 |
1830年10月 | ベルギーがオランダからの独立を達成 |
1848年2月 | フランスで二月革命が起こり、第二共和政が成立する |
1848年3月 | 三月革命でメッテルニヒが亡命し、ウィーン体制が崩壊 |
1848年 | 各国で独立運動が活性化(諸国民の春) |
ウィーン体制の背景
イギリスやフランスの市民革命は、王権をゆるがした。
下級軍人から皇帝へ成りあがったナポレオンは、革命理念である自由・平等の象徴であり、彼のヨーロッパ支配は他国支配への反抗心、ナショナリズムをめばえさせた。
ウィーン体制の成立
ナポレオンの戦後処理をするため、ヨーロッパ諸国の支配者たちはウィーンで国際会議を開いた。
利害が対立して話が進まなかったところ、ナポレオンが流刑地から脱出。
これを機に、フランス革命前の王政に戻すこと、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの四国同盟を中心に反乱を抑圧することが合意された。
これをウィーン体制という。
ウィーン体制の動揺
フランス革命やナポレオンに触発され、各地で民族蜂起や反抗運動が勃発。
王政に戻ったフランスで七月革命が起きると、影響を受けたベルギーがオランダから独立。
フランスで再び共和政が樹立した二月革命の影響がドイツ地方におよび、ウィーン体制に立役者だったメッテルニヒが亡命すると、憲法制定会議が開かれた(三月革命)。
しかし、弾圧されて終わる。
ウィーン体制の崩壊
各地で活性化する民族運動は「諸国民の春」と呼ばれた。
多くは弾圧されて終わったが、これによりウィーン体制は崩壊した。
同じころ、資本主義体制を変革、または廃止して、労働者階級を保護する新しい社会のルールをつくろうとする社会主義思想が誕生。
ドイツの社会学者マルクスは、労働者に団結を呼びかけて労働者階級の政権獲得などをめざした。
まとめ
今回の内容をまとめると
- イギリスやフランスの市民革命は、王権をゆるがし、皇帝へ成りあがったナポレオンは、革命理念である自由・平等の象徴であり、彼のヨーロッパ支配は他国支配への反抗心、ナショナリズムをめばえさせた。
- ナポレオンの戦後処理をするため、ヨーロッパ諸国の支配者たちはウィーンで国際会議を開いた。
- ナポレオンの流刑地脱出を機に、フランス革命前の王政に戻すこと、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの四国同盟を中心に反乱を抑圧することが合意(ウィーン体制)された。
- フランス革命やナポレオンに触発され、各地で民族蜂起や反抗運動が勃発。フランスで七月革命、ベルギーがオランダから独立。二月革命の影響がドイツ地方におよび、ウィーン体制に立役者だったメッテルニヒが亡命した。
- 各地で活性化する民族運動は「諸国民の春」と呼ばれた。 多くは弾圧されて終わったが、これによりウィーン体制は崩壊した。また資本主義体制を変革、または廃止して、労働者階級を保護する新しい社会のルールをつくろうとする社会主義思想が誕生した。
ではまた、ごきげんよう。