・仏・独・露と対立したイギリスは日本と同盟
・日露戦争で負けたロシアはバルカン半島に進出
・バルカン半島の民族紛争が第一次世界大戦の原因に
この第一次世界大戦直前の情勢について、「日露戦争前の国際関係」、「日露戦争後の国際関係」、「バルカン問題と第一次世界大戦」に分類して学んでいきたい。
- 日露戦争前の国際関係
- 日露戦争後の国際関係
- バルカン問題と第一次世界大戦
日露戦争前の国際関係
19世紀に入ると、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアといった列強の植民地獲得競争は激しさを増した。
国外に侵略して植民地などの勢力圏を増やし、政治的・経済的に支配する体制を「帝国主義」と呼んだ。
対立が深まるヨーロッパ情勢に影響を与えたのが、遅れてきた帝国主義国家・日本がロシアと戦った日露戦争(1904年。
列強との争いに手を焼いたイギリスは、ロシアとの対立は日本にまかせようという魂胆で、日英同盟を結んだ。
そして日露戦争は日本優勢のまま終わった。
日露戦争後の国際関係
日露戦争で敗れたロシアは東アジアから撤退し、その矛先をバルカン半島へ向けた。
当時バルカン半島は、3B政策を進めるドイツが影響力を強めており、ロシアはドイツと敵対した。
3B政策に対しては、3C政策を推進するイギリスも脅威を抱いていた。
そこでイギリスとロシア、さらに長年にわたりドイツと対立するフランスが手を結んだ。
ここに、英仏露 VS 独 という第一次世界大戦の構図が生まれた。
■3B政策
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって主導された、ベルリン ・ビザンティウム ・バグダード を鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略
バルカン問題と第一次世界大戦
ロシアが勢力拡大をねらうバルカン半島は、もともとオスマン帝国の領土だったのだが、帝国が衰退するとドイツとその同盟国であるオーストリアも進出を目論んでいた。
ロシアはセルビアなどを支援し、進出するオーストリアとの対立を深めていった。
オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合。
それに反発したセルビア人がオーストリア皇太子を殺害したサライェヴォ事件が第一次世界大戦のきっかけとなった。
■ヨーロッパの火薬庫
バルカン半島にはスラヴ人やギリシア人など多くの民族が住んでおり、宗教も多様だった。
オスマン帝国の時代は問題なかったが、帝国の力が弱まると民族同士が争うようになった。
さらに各民族をロシアなどの列強が支援したことで紛争が拡大し、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
ではまた、ごきげんよう。