・エリザベス1世が即位し絶対王政の絶頂期に
・ピューリタン革命で台頭したクロムウェルが独裁開始
・名誉革命により議会主権にもとづく立憲王政が確立
このイギリス革命について、「エリザベス1世と絶対王政」、「イギリス革命」、「ピューリタン革命」、「名誉革命」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- エリザベス1世と絶対王政
- イギリス革命
- ピューリタン革命
- 名誉革命
年表
いつ | できごと |
---|---|
1558年 | エリザベス1世が即位し、絶対王政の最盛期を迎える |
1580年 | 海賊ドレークが世界周航を達成 |
1588年 | イギリスがアルマダ海戦で勝利し、スペインが衰退する |
1642~49年 | ピューリタン革命が勃発し、国王が処刑され共和政開始 |
1653年 | クロムウェルが護国卿に就任 |
1660年 | チャールズ2世が即位し、王政復古を提唱 |
1688年 | 名誉革命が勃発し、立憲王政が確立する |
1721年 | ウォルポール内閣が成立する |
エリザベス1世と絶対王政
イギリスの絶対王政最盛期に君臨したエリザベス1世は、議会とのバランスをとり、国民にも愛された。
また、スペインを撃破して海外へ進出。
特産の毛織物による積極的な商業政策を進めた。
これにより工場も経営や貿易を行うジェントリ(中小地主層)が台頭。
原料の羊毛需要が上昇し、農民から農地を取り上げて牧羊地として囲い込むエンクロージャーを進め、毛織物工業は国民産業となった。
イギリス革命
イギリスでは早くから議会が形成され、法律の制定や新課税の承認権を握っていた。
絶対王政といえども王は議会と調和する必要があったが、専制に戻した王は議会を無視。
国王の専制を激しく批判した議会派はイギリス革命を起こして議会政治を確立した。
ピューリタン革命
イギリスの絶対王政による国教会の強制に対し、ピューリタン(宗教改革を主張したプロテスタント諸教派の総称)の信仰の自由、特権的商人を保護する重商主義に対するジェントリ(中小地主)層の不満などが要因となり1642年に内乱が始った。
1649年に王政が倒れて共和政が成立した革命。
ジェントリ出身でピューリタンのクロムウェルが権力をにぎった。
しかし、次第に独裁化し、国内が混乱した。
クロムウェルの死後、1660年に王政復古して終わった。
名誉革命と併せてイギリス革命と言われる。
名誉革命
ピューリタン革命に次いで起こった政治的転換。
王政復古後のイギリス・ステュアート朝のジェームズ2世はカトリック信者で、国教会の立場である議会との対立は深刻化した。
議会内においても国王に妥協的なトーリ党と、王権との対決を辞さないホィッグ党の対立が始まっていた。
ジェームズに男子が産まれたが、次の国王としてトーリ、ホィッグ両党は一致して、急きょオランダ総督ウィリアムを招聘した。
オランダは英蘭戦争で激しくイギリスと戦った国であるが、プロテスタント(カルヴァン派)の国で、当時フランスのルイ14世の侵攻を受けていたためイギリスとの提携に転じ、積極的に応じた。
ウイリアムがオランダ軍が上陸させたこと、各地に反国王の蜂起も始っており、ロンドン市民も国王排除に立ち上がった。
そのため、ジェームズ2世は妻子とともにフランスに亡命した。
この国王の交替が流血の惨事を伴わずに実現したことから、「名誉革命」と言われている。
まとめ
今回の内容をまとめると
- イギリスの絶対王政最盛期に君臨したエリザベス1世。特産の毛織物による積極的な商業政策を進め、毛織物工業は国民産業となった。
- イギリスでは議会が形成され、法律の制定や新課税の承認権を握っていたため、絶対王政といえども王は議会と調和する必要があったが、専制に戻した王は議会を無視したため、議会派はイギリス革命を起こして議会政治を確立。
- ピューリタン革命、名誉革命を起こし、議会政治を打ち立てたことをイギリス革命という。
ではまた、ごきげんよう。