キングダムでも有名な中国を統一した秦王・政は始皇帝と呼ばれた。
その始皇帝について、「始皇帝の由来」、「始皇帝をめぐる人物たち」、「中国統一までの道のり」、「秦の滅亡」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 始皇帝の由来
- 始皇帝をめぐる人物たち
- 中国統一までの道のり
- 秦の滅亡
始皇帝をめぐる人物たち
中国統一をした秦王・政は、中国古代神話で理想とされる8人の君主「三皇五帝」(さんこうごてい)にちなんで初めて「皇帝」を名乗った。
死後は初めての皇帝だったことから、「始皇帝」と呼ばれることになった。
その後2000年以上も中国で続くことになる皇帝制の基礎をつくったが、49年の生涯はまさに波乱だった。
始皇帝をめぐる人物たち
戦国時代、政(始皇帝)の曾祖父にあたる昭襄王(しょうじょうおう)は敵国・趙に人質として孫の一人である子楚(しそ)(政の父・荘襄王)(そうじょうおう)を送る。
その荘襄王(そうじょうおう)と趙姫(ちょうき)の息子として秦王となった政(始皇帝)は生まれる。
だが、出生は謎に包まれており、始皇帝の母・趙姫は荘襄王の寵愛をうけたが、もとは呂不韋(りょふい)の愛人であったため、どちらが始皇帝の父なのかは謎とされている。
中国統一までの道のり
人質の子として敵国で生まれる
大商人・呂不韋(りょふい)は、人質として貧しく暮らしていた子楚(しそ)に近づき、援助をする。
愛人だった趙姫(ちょうき)も子楚に譲った。
子楚と趙姫の間に生まれたのが政。
呂不韋は孝文王(子楚の父)の后に働きかけ、子楚を世継ぎにした。
王子から王に
孝文王が在位1年足らず、子楚が在位3年で亡くなると、子楚の子として生まれた政が即位。
呂不韋は13歳の王を支える相国(しょうこく)(宰相)になった。
この頃、趙姫は呂不韋との関係を復活させていたが、発覚を恐れた呂不韋は嫪毐(ろうあい)という男を趙姫に紹介し、宦官(去勢した男性)と偽り仕えさせた。
謀反人を討って親政開始
趙姫と嫪毐(ろうあい)がクーデターを起こすと政はこれを制圧した。
呂不韋も解任する。
呂不韋は自ら毒を飲んで死を選んだ。
政は親政(君主自らが政治を行う)をはじめた。
戦国七雄の6国撃破
名実ともに秦国の王となった政は、大臣の李斯(りし)、宦官の趙高(ちょうこう)、将軍の李信らと中国統一のための戦争を開始。
王セン、蒙恬(もうてん)といった武将も活躍し、韓・趙・燕・魏・楚・斉を次々と撃破。
戦乱の時代を終わらせた。
中国統一
政は39歳で史上初めて中国を統一した。
中央集権体制を築き、北方異民族に備えて万里の長城を整備するなど改革をすすめるが、約10年後、視察先で病に倒れる。
秦の滅亡
前209年 始皇帝の死後、宦官の趙高(ちょうこう)と丞相の李斯(りし)が共謀して皇帝の死を伏せておき、皇帝の詔書を偽造した。
本来なら皇位を継ぐべき太子の扶蘇(ふそ)に対しては亡き皇帝の命令として死を賜わる一方、始皇帝の遺言と偽り、末子の胡亥(こがい)を新しい皇帝に擁立した。
皇帝の胡亥を完全に操ることによって、趙高は権力の頂点に登り詰めた。
だが、中国史上最初の農民反乱「陳勝・呉広の乱」の勃発し、各地で農民を中心とした民衆が秦の官吏を殺して蜂起し、全国に及ぶ秦王朝の中央集権的支配が音を立て崩れていった。
全権を握った趙高が丞相の李斯を殺したのち、自分の操り人形である胡亥にも手を下した。
胡亥の死後、趙高は秦三世として皇族の公子嬰を擁立することにしたが、その公子嬰が即位する直前にまず趙高を殺して、その一族を滅ぼした。
公子嬰は、城下に迫ってきた反乱軍に対してもはやなすすべもなく、皇帝のシンボルである玉璽を首に掛けて城外脱出し、それを劉邦軍に献じて降伏。
中国統一を果たしてから15年、陳勝・呉広の乱が起きてからわずか2年半、あれほど強大にして盤石のように見えた秦帝国があっけなく滅亡した。
ではまた、ごきげんよう。