劉邦が築いた漢王朝は2世紀に入ると衰退し、三国時代・三国志へ突入する。
その三国志について、「後漢の衰退」、「争乱の時代」、「三国時代の中国大陸」、「三国志の戦い」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 後漢の衰退
- 争乱の時代
- 三国時代の中国大陸
- 三国志の戦い
年表
いつ | できごと |
---|---|
168年 | 後漢皇帝・霊帝が即位。宦官の専横がはじまる |
184年 | 諸将の活躍により黄巾の乱が終結 |
208年 | 赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍が曹操軍に勝利 |
220年 | 曹操の子・曹丕が皇帝になり、魏が建国される |
221年 | 劉備が皇帝となり、蜀が建国される |
222年 | 孫権が皇帝になり、呉が建国される |
249年 | 司馬懿がクーデターを起こし魏の政権を掌握 |
265年 | 司馬炎が皇帝になり晋を建国 |
後漢の衰退
漢王朝が衰退しはじめ、さらに大陸中に飢饉が広がった。
飢饉や政治不信により、不満を持つ民衆を味方にした宗教集団・黄巾党(こうきんとう)が朝廷に反乱(黄巾の乱)をおこした。
その混乱に乗じて豪族・董卓(とうたく)とその部下・呂布(りょふ)が幼い皇帝を抱え込み朝廷を支配した。
争乱の時代
董卓・呂布を倒して再び平和をもたらそうとしたのが役人の曹操(そうそう)と劉邦の血を引く劉備(りゅうび)だった。
曹操と劉備は強力して董卓と呂布を討伐。
その後、曹操は皇帝を保護し、天下統一に王手をかける。
曹操は、従わない劉備や孫権を滅ぼそうとした。
劉備と孫権は同盟を結び、赤壁で曹操軍を迎え撃ち(赤壁の戦い)、大勝利した。
三国時代の中国大陸
赤壁の戦いのあと、中国大陸は曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の3分割された。
三国は戦いを繰り返すが、最終的には晋に滅ぼされる。
■魏
曹操が基盤をつくり、子・曹丕(そうひ)が立ち上げた国。
曹操は皇帝を保護し、天下統一をめざした。
曹操は優秀な人材をたくさんスカウトしたり、きちんとした政治システムをつくった。
■蜀
劉備が軍師・諸葛亮のアドバイスでつくった国。
劉備は劉邦の末裔とされ、皇帝とは遠い親戚関係だった。
そのため皇帝の権威をほしいままにする魏を不服とし、蜀を築いて対抗した。
■呉
孫権は、父・孫堅や兄・孫策が育んできた領土を守るため、魏・蜀に対抗して呉をつくった。
南海に面した国のため貿易が盛んだった。
三国志の戦い
魏・蜀・呉に分かれた三国は戦いを繰り返す。
・蜀 VS 呉 荊州争奪戦
大陸中央部にある荊州は、ちょうど三国の国境線と被っている激戦地。
特に蜀と呉の間で戦が起こり、蜀の猛将・関羽はこの荊州を守護している最中に殺された。
・魏 VS 呉 合肥の戦い
魏と呉の国境線にある合肥ではたびたび戦が勃発。
一進一退の攻防が続いた末に、両国とも疲弊して和平を結んだ。
・魏 VS 蜀 北伐
劉備の死後、後を継いだ諸葛亮は、魏に何度も攻め込んだ。
しかし決定的な勝利は得られず、五丈原の戦いの最中に病死した。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 漢王朝が衰退し、飢饉や政治不信により、不満を持つ民衆を味方にした宗教集団・黄巾党(こうきんとう)が朝廷に反乱(黄巾の乱)をおこした。混乱に乗じて董卓(とうたく)と呂布(りょふ)が幼い皇帝を抱え込み朝廷を支配した。
- 曹操と劉備は強力して董卓と呂布を討伐し、曹操は皇帝を保護し、天下統一に王手をかけるが、劉備と孫権が同盟を結びこれに対抗した(赤壁の戦い)。
- 赤壁の戦いのあと、中国大陸は曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の3分割され、三国は戦いを繰り返した。
- 最終的には魏・司馬懿のクーデターにより晋という国が中国を統一。
ではまた、ごきげんよう。