中国を統一した劉邦(高祖)が築いた漢王朝。
その漢について、「中国王朝の基礎」、「武帝による前漢の最盛期」、「再興した後漢」、「漢時代の古典文化」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 中国王朝の基礎となった前漢
- 武帝による前漢の最盛期
- 再興した後漢
- 漢時代の古典文化
年表
いつ | できごと |
---|---|
紀元前202年 | 前漢建国。劉邦が初代皇帝となり都を長安に |
紀元前141年~87年 | 武帝(第7代)在位。前漢の最大版図を築き最盛期を迎える |
8年 | 王莽が皇帝となり国号を新とする |
25年 | 光武帝が漢を再興、都を洛陽にする |
57年 | 委の奴国王の使者が光武帝から金印を授けられる |
166年 | 大秦王安敦の使者が日南郡を訪問 |
中国王朝の基礎となった前漢
秦は全土に中央から役人を送る郡県制を取っていたが、支配が厳しすぎた。
漢は、郡県制に周代の封建制を組み合わせた緩やかな郡国制で統治した。
また、高祖(劉邦)は、中央は秦にならって三権を分立。
しかし、秦が中央集権化を急いで滅亡したことを学び、変革を急がず、6代・景帝の頃に中央集権体制を整えた。
武帝による前漢の最盛期
漢の7代皇帝・武帝はほぼ郡県制といえる統治を実現し、地方から優秀な人材を推薦させるなどして国力をアップ。
匈奴(きょうど)、南越(なんえつ)、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)などへ外征し、領土を拡大した。
しかし、度重なる戦争で財政難におちいり、皇帝の力は弱まっていった。
そんな中、皇帝の外威・王莽(おうもう)がクーデターを起こした。
再興した後漢
皇帝位を奪った新だったが、まもなく農民たちが起こした赤眉の乱で滅亡する。
変わって漢の光武帝が鎮圧して、漢王朝は復興した。
その後およそ2世紀にわたり中国を治めた。
この新の後の漢王朝は、後漢と呼ばれる。
後漢は外交・財政安定のため東西貿易を促進し、大秦王案敦(だいしんおうあんとん)の使者もやってきた。
また、日本の福岡県にあったと言われている倭国は中国に使いを送り「委奴国王」と記された金印を光武帝から授けられ、後漢と君臣関係を結ぶ「冊封体制」に組み込まれた。
大秦王案敦はローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスとも言われている。
漢時代の古典文化
漢王朝は約400年という長い間、中国を統治したため、社会も比較的安定したことから、中国古典文化が確立した。
中国古典文化は日本への影響も大きく、現代でも書物などで歴史をしることができる。
・儒学の官学化
前漢の武帝は統治を強化するため、儒学者・董仲舒(とうちゅうじょ)の提案を採用し、儒学を官学とした。
・製紙法の改良
後漢の蔡倫(さいりん)は、繊維くずなどを水中でつぶし、網ですくってシート状にした紙を、105年に和帝に献上した。
・漢字の発達
漢字も発達し、最古の字書も作られた。
・歴史書の誕生
皇帝や英雄の歴史を記録する「紀伝体」というスタイルで「史記」が執筆され、支配王朝によって公的に作られる歴史書が生まれた。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 秦が中央集権化を急いで滅亡したから、漢は変革を急がず徐々に中央集権体制を整え、中国王朝の基礎となった。
- クーデターにより皇帝位を一時的に新に奪われたが、漢の光武帝が鎮圧して、漢王朝は復興した。新の後の漢王朝は、後漢と呼ぶ。
- 漢王朝は約400年という長い間、中国を統治したため、社会も比較的安定したことから、中国古典文化が確立した。儒学や製紙法、漢字や歴史書などが生まれ、日本への影響も大きく、現代でも書物などで歴史をしることができる。
ではまた、ごきげんよう。