暴れん坊将軍でおなじみの江戸幕府の8代将軍 徳川吉宗
徳川吉宗は何をしたのか?と聞かれると、暴れん坊将軍以外に何か出てくるだろうか?私はでてこない・・・
そこで、今回の内容はこちら
- 徳川吉宗はどのように8代将軍になった?
- 徳川吉宗時代の幕府の悩みとは?
- 徳川吉宗が行った「享保の改革」とは?
- 徳川吉宗の改革の光と闇
年表
いつ | できごと |
---|---|
1709年 | 新井白石が登用され、幕府の中心となり、正徳の治を行う |
1714年 | 絵島生島事件が起こり、新井白石らの勢力が弱まる |
1716年 | 紀州藩主の徳川吉宗が、征夷大将軍に就任する |
1720年 | 吉宗の命で、町火消しが設置されるなど、改革が進む |
1722年 | 庶民の意見が反映された、小石川養生所が設立される |
1722年 | 新田開発奨励の高札が立てられ、開発が進められる |
1732年 | 西日本を中心に飢餓が起こり(享保の飢餓)、農民が疲弊 |
徳川吉宗はどのように8代将軍になった?
6代将軍・家宣の時代は、新井白石、間部詮房などの有能な家臣を登用し、善政を敷いていた。
とくに、白石が主導した政治のことを「正徳の治」という。
しかし、家宣は在位わずか3年で死去。
続く、7代将軍・家継も1716年に7歳で亡くなってしまい、家継の世継ぎはいなく、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から続いた「徳川宗家」の血統は、途絶えてしまった。
新井白石と間部詮房は、8代将軍として徳川家継の「継」の字をもらっていた尾張藩6代藩主・徳川継友(とくがわつぐとも)を次の将軍候補に推薦した。
しかし、紀州藩を長年の財政難から立て直し、間部詮房・新井白石に対抗する幕閣や、大奥の後押しを受けた紀州藩5代藩主・徳川吉宗が8代将軍に選ばれた。
将軍家を支えた御三家・御三卿の解説記事はこちら
徳川吉宗時代の幕府の悩みとは?
世継ぎ問題と政治の混乱
結果的に、吉宗となったが、7代将軍・家継亡き後の8代将軍をめぐる世継ぎ問題。
また、6代・家宣と7代・家継が続けて亡くなったことで政治は混乱していた。
絵島生島事件
1714年、「絵島・生島事件」(えじま・いくしまじけん)という大奥内の勢力が覆る事件が発生。
当時の大奥内では、6代将軍・徳川家宣の正室「天英院」(てんえいいん)派と、7代将軍・徳川家継の生母・月光院(お喜世の方)派の2派に勢力が分裂。
徳川家継が将軍なので、生母の月光院派に権勢が傾いていた。
しかし、月光院に仕える大年寄(大奥女中の総頭で表向きの老中)の「絵島」(えじま)が、歌舞伎役者の「生島新五郎」(いくしましんごろう)との密通を疑われ、それをきっかけに大奥の規律の乱れが発覚した。
これにより、絵島は大奥を追放され、生島新五郎は島流しになった。
大奥内では月光院派の勢力は力を弱め、天英院派が優勢となる。
同時に、新井白石や間部詮房によって政権から疎外されていた老中ら幕閣達の、反対勢力も強まる結果となった。
財政難
幕府は財政難に陥っていた。
幕府の財源は、農民たちが治める税金と年貢と呼ばれる米で、収穫量は豊作、不作があり幕府の収入は安定しなかった。
徳川吉宗が行った「享保の改革」とは?
幕府の収入安定
吉宗は、米の収入を増やすことで幕府の収入を安定させるため、家臣に命じて各地で新田開発を行った。
大奥のリストラ
無駄を省いた倹約を徹底した吉宗は大奥にもメスを入れた。
大奥の経費削減のため、4000人から1300人まで人員をカット。
将軍中心の政治
将軍の代わりに側用人が政治を行う政治システムから、将軍が主導する政治に変更。
側用人の登用を止め、学者や大名達の意見を聞くようにした。
江戸の都市政策
江戸では火事が頻発していたため、町火消しを置いて火事に対応した。
また、庶民の考えや生活の状況を知るための「目安箱」を設置した。
そして、庶民の意見にこたえ、無料の医療施設・小石川養生所をつくった。
実学の推奨
鎖国により当時の日本は海外の知識が不足していた。
そこで吉宗は、西洋の科学や医学などが書かれた、キリスト教以外の洋書や、それを中国で漢字に翻訳した書籍を輸入した。
薬や、飢餓に備えた非常食の研究など、実際に人々の役に立つ学問を援助した。
綱吉の政治の光と闇
幕府財政が安定
新田開発により幕府の収入となる米の収穫は増えたが、豊作や不作があるため、良いときは良いが悪いときは悪いという、一時的な安定に過ぎなかった。
享保の飢餓
悪天候と害虫の被害により米が大打撃をくらい、大飢餓がおこった。
また、米経済に頼りすぎたため、農民には重税がのしかかり疲弊した。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 徳川宗家からの世継ぎがいないため、紀州藩を長年の財政難から立て直し、間部詮房・新井白石に対抗する幕閣や、大奥の後押しを受けた紀州藩5代藩主・徳川吉宗が8代将軍になった
- 徳川吉宗の時代の幕府は、世継ぎ問題、相次ぐ将軍の死による政治混乱、絵島生島事件による大奥の乱れ、財政難を抱えていた
- 徳川吉宗の享保の改革は、幕府収入の安定化・経費削減、将軍中心の政治形態への変更、江戸の都市政策、実際に役に立つ学問の推奨
- 幕府の収入を一時的に安定化できたが、不運にも悪天候・害虫の被害により収入源となる米の大不作により享保の飢餓がおき、農民たちは重税に疲弊した
吉宗は大改革を行い幕府を立て直したが、大改革による痛みもあったので、暴れん坊将軍になったのかもしれない。
ではまた、ごきげんよう。