蒙古襲来から日本を守ることができた鎌倉幕府だが、御家人への恩賞を渡すことのできない国防戦だったことから徐々に崩れ始めていく。
無事に日本が守れたのでこれからも鎌倉幕府が安泰かと思いきや、日本を守った武士たちが不満を持ってき始めて政治体制が揺らいでいく、その中でさらに朝廷が分裂するという問題ばかりになってしまう。なぜ鎌倉幕府が終わったのかをちゃんと把握していなかったのでこの辺も面白い。
ポイント
- 北条氏の勢力
- 得宗専制政治とは
- 幕府の抱える問題とは
- 朝廷が分裂
年表
いつ | できごと |
---|---|
1275年 | 幕府、元の襲来を恐れて異国警護をさらに強化 |
1284年 | 北条時宗が死去し、北条貞時が9代執権に就任 |
1285年 | 霜月事件がきっかけで得宗専制政治がはじまる |
1297年 | 鎌倉幕府が永仁の徳政令を出す |
1316年 | 北条高時が14代執権になる |
1317年 | 文保の和団で、持明院統・大覚寺統の両党迭立が決まる |
1319年 | 地頭に悪党の取り締まりを命じる |
北条氏の勢力拡大
蒙古襲来で御家人たちは大きな犠牲を払った。しかし、日本を守るための戦いだったため、新しい領地を得られず、幕府は御家人たちに十分な恩賞をあたえられなかった。幕府は元の再来に備え、九州の御家人たちに警護を命ずるとともに、九州に北条一門を派遣。北条氏の勢力をさらに西へと広げた。
得宗専制政治
2度の元の襲来を退けた8代執権・北条時宗は若くして亡くなり、子の貞時が9代執権となった。幕府は得宗(北条氏のトップ)の権力が増し、得宗の家臣である御内人と、御家人が対立した。
霜月騒動
内管領(御家人の代表)の平頼綱が、有力御家人・足立泰盛を滅ぼす霜月騒動。その後、北条貞時が平頼綱を倒し、得宗として幕府の実権を掌握。御内人と北条氏一門が幕府政治を主導する得宗専制政治になった。
揺らぐ北条氏の支配
次から次へと問題が出て、幕府は対処に困ってしまう。
没落する中小御家人
御家人は分割相続を繰り返して領地が細分化し困窮。領地を売却するものもでた。幕府は御家人を守るため「永仁の徳政令」をだし、売却した領地を取り戻せるようにした。しかし、余計に経済が混乱し、多くの中小御家人は没落してしまった。
悪党の登場
幕府と御家人の絆が薄れる中、社会の変化に応じて力を付ける新しい武士が現れた。新興の武士は荘園領主などに武力で対抗したことから、悪党呼ばれた。社会不安が高まる中、各地で悪党が横行し、幕府は鎮圧に苦しんだ。
朝廷の分裂
朝廷は大覚寺統(のちの南朝)と持明院統(のちの北朝)に分裂し、天皇継承争いが起こった。争いが激化すると、朝廷は幕府にどちらが天皇かを迫った。しかし、元寇の混乱に追われていた幕府は決められず、南北交互に天皇になれば良いとアドバイスしてしまう。これに納得がいかなかった朝廷は、鎌倉幕府打倒を考え始める。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。