世界最大の大帝国に2度も襲われた日本最大の危機。
元といえば歴史上一番世界を支配した巨大で最強の国。その元に2度攻められても無事だった日本は神がかっていたとしか思えない。そこから一難去っても、日本の国が揺らいでいく運命になるが、まずは支配されなくてよかった。
ポイント
- 武士道の起源は鎌倉時代
- モンゴル帝国と元とは
- 元寇とは
- どうやって日本は助かったのか
年表
いつ | できごと |
---|---|
1206年 | モンゴル帝国初代皇帝にチンギス・ハンが即位 |
1259年 | 高麗がモンゴルに降伏する |
1260年 | フビライ・ハンが即位。日蓮が『立正安国論』を献上 |
1268年 | 北条時宗が執権に就任。フビライから日本へ国書が送られる |
1271年 | フビライ・ハンが国号を改め、元王朝が成立 |
1274年 | 1度目の蒙古襲来、文永の乱が起こる |
1276年 | 元王朝に攻められて、南宋滅亡 |
1281年 | 2度目の蒙古襲来、弘安の役が起こる |
武士道の起源
武士は惣領(リーダー)を中心に一族の結びつきを強めながら領地を広げた。そして、堀や塀を目ぶらせた館を構え、荘官や地頭としてその勢力を拡大していった。さらに御家人として幕府に奉公し、戦の時には一族みんなで戦いに参加した。こうした武士道の起源が鎌倉時代にうまれた。
史上最大の大帝国・モンゴル
13世紀はじめ、チンギス・ハンがモンゴル(蒙古)を統一し、後継者たちがユーラシア大陸に大帝国を建設した。最盛期には地球の陸地の約4分の1を支配下においていた。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、国号を元として、日本を侵略するために2度攻めてきた。(元寇)
壱岐・対馬への侵攻
約3万の元軍に対し、壱岐の守護代・平景隆は100人ほどで戦って敗れる。さらに対馬の子どもが200人も拉致されてしまい、家来に大宰府に伝えるように命じて自害した。
元寇
文永の役(1274年)
元は、壱岐・対馬を襲うと、3万の兵と900艘の軍船で博多を攻め、日本は1万で防戦した。日本は苦戦したが、勇敢に戦い、元は翌日撤退した。
防塁を築く
幕府は再度の元軍の侵攻に備え、九州の御家人に警護の強化を指示し、博多湾に約20㎞にわたる防塁を築かせた。
弘安の役(1281年)
元は南宋を滅ぼすと、朝鮮半島と中国大陸の2方向から、およそ14万の兵と軍船4400艘で、再度博多を襲った。日本は元軍の上陸を阻止、元軍は嵐で全滅した。当時は全国の寺社に元軍降伏の祈りを命じたおかげで神風が吹いたとされていた。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。