不安だった奈良時代 皇統の危機を回避! 楽しい日本史 -日本のはじまり- 7.

BEGINING OF JAPAN

天皇を中心とする律令国家「日本」として平城京をつくった奈良時代の政治・制度や当時の不安について
当時は不穏なことや不吉なことは目に見えない何かのせいにされてきたのはしょうがないと思うが、皇統の危機があったのは全然知らなかった。習ってない気がする。

ポイント

  • 平城京とは
  • なぜ東大寺に大仏があるのか
  • 孝謙天皇のしたこと
  • 道鏡という僧

年表

いつできごと
710年元明天皇の在位中に、平城京に遷都
718年藤原不比等によって「養老律令」が編纂される
724年元正天皇が譲位し、聖武天皇が即位
729年藤原四兄弟により、長屋王が無実の罪で自害(長屋王の変)
741年国分寺建立の詔が出され、全国で国分寺の建立がはじまる
752年東大寺大仏の開眼供養が行われる
764年孝謙天皇と対立した藤原仲麻呂が反乱を起こす
766年道鏡が天皇になろうと目論む宇佐八幡宮神託事件が起こる

おもな登場人物

平城京

701年に大宝律令が制定され、天皇を中心とする律令国家が成立し、710年に新しい都・平城京がつくられた。平城京は人口約10万人の大都市だった。奈良時代は全国を結ぶ官道が整備されるなど、国家的な大事業もつぎつぎと行われた。「日本」という国号が使われ始めたのもこの頃。

奈良時代の政治・制度

官位制度

中央には神事を行う神祇官と国政を行う太政官がおかれた。太政官には左大臣・右大臣・大納言などがおり、彼らの合議ののちに天皇が決定を下した。

行政区分

この頃、5つの「畿内」(近畿地方)とそのほかの地域を7つに分けた「七道」合わせて五畿七道が整備された。五畿七道は江戸時代まで使われた行政区分。

土地制度

それまでは民が田畑を耕しても、田畑は天皇のものだった。すると田畑を開こうとする民が減ったため、田畑を開いたらその田畑は民のものとする法(墾田永年私財法)ができた。

聖武天皇を襲う不安

長屋王の変(729年)

皇族の長屋王は、政界を手動する実力者だった。彼を邪魔ものと考えていた藤原不比等の子どもたち藤原四兄弟は、無実の罪で長屋王を自害へと追い込んだ。

藤原四兄弟の死(737年)

長屋王の死後、権力をにぎった藤原四兄弟だったが、天然痘で4人とも死んでしまい、長屋王のタタリだとうわさされた。その後は皇族出身の橘諸兄が政権をにぎった。

藤原広嗣の乱(740年)

大宰府に左遷された藤原広嗣(藤原四兄弟のひとり・宇合の息子)が橘諸兄の政治に反発。1万に及ぶ兵を率いて乱を起こしたが、政府軍に鎮圧された。

鎮護国家への祈り

聖武天皇の時代は災害や疫病が多発した。こうした社会不安を仏教の祈りによって解決しようと、聖武天皇は全国に国分寺を建て、平城京に東大寺と大仏をつくった。

皇統の危機

聖武天皇の娘・孝謙天皇は上皇となり、補佐役の藤原仲麻呂よりも僧・道鏡を信じるようになった。孝謙上皇は再び即位して称徳天皇になり、道鏡を天皇にしようとしてしまう。

あとがき

日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。

ではまた、ごきげんよう。

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