・ドイツの主導権がオーストリアからプロイセンへ移行
・首相ビスマルクが鉄血政策を推進し、ドイツ帝国成立
・フランスの孤立をねらってイタリア・オーストリアと同盟
このビスマルクのドイツについて、「ドイツ連邦の結成」、「ドイツとイタリアの統一」、「ビスマルクの鉄血政策」、「ドイツの外交政策と三国同盟」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- ドイツ連邦の結成
- ドイツとイタリアの統一
- ビスマルクの鉄血政策
- ドイツの外交政策と三国同盟
年表
いつ | できごと |
---|---|
1815年 | ウィーン会議によりドイツ連邦が成立 |
1834年 | プロイセンが中心となり、ドイツ関税同盟が成立 |
1849年 | ローマ共和国が成立するも崩壊 |
1861年 | イタリア王国が成立。 功労者カヴールが急死する |
1862年 | ビスマルクがプロイセン首相に就任 |
1867年 | オーストリア=ハンガリー帝国が成立する |
1871年 | プロイセン王が皇帝に。ドイツ帝国が成立する |
1882年 | ドイツ、イタリア、オーストリアが三国同盟を結成。 |
ドイツ連邦の結成
ウィーン体制成立時に、神聖ローマ帝国に代わる国家として、ドイツ連邦が結成された。
プロイセンなど35の君主国と、4つの自由都市からなるオーストリアを中心とした国家連合。
オーストリアがその中心を狙ったが、政治的に分断されナショナリズムが進んだ。
ドイツとイタリアの統一
ウィーン体制下で抑圧されていたイタリア、ドイツの独立運動は、体制の崩壊と、国際秩序の要であるイギリスとロシアの対立により活発化。
ドイツはプロイセンを主軸にまとまり、イタリアはサルデーニャ王国を中心に統一された。
■ドイツ帝国
蜂起したドイツの自由主義者たちは、国民議会を開いて統一をめざしたが、プロイセンとオーストリアの主導権争いが勃発し失敗。
その後、プロイセンの首相ビスマルクがドイツをまとめ上げた。
ビスマルクは地主貴族ユンカー出身でドイツ帝国初代宰相になった。
■イタリア王国
小国が分立し9か国に編成されていたイタリアを、両シチリア王国を占領したガリバルディの援助を受けてサルデーニャ王国がイタリアを統一。
ビスマルクの鉄血政策
ビスマルクはドイツ帝国宰相として、産業の育成と軍備を拡張する鉄血政策をとり、軍事力による独裁的な権力をふるった。
反抗する労働者の間で社会主義運動が広まると、弾圧というムチと、労働者の保護制度の整備というアメを使い分けてコントロールした。
ドイツの外交政策と三国同盟
ビスマルクは、フランスを孤立させてドイツの安定をはかるため、オーストリア、ロシアと三帝同盟を結んだ。
しかし、2国が対立したため、イタリア、オーストリアと三国同盟を締結。
ロシアとイギリスの対立で崩れた、国際秩序の再構築をめざした。
これをビスマルク体制と呼ぶ。
まとめ
今回の内容をまとめると
- ウィーン体制成立時に、神聖ローマ帝国に代わる国家として、プロイセンなど35の君主国と、4つの自由都市からなるオーストリアを中心とした国家連合ドイツ連邦が結成。
- イタリア、ドイツの独立運動は、ウィーン体制の崩壊と、国際秩序の要であるイギリスとロシアの対立により活発化。ドイツはプロイセンを主軸にまとまり、イタリアはサルデーニャ王国を中心に統一。
- ビスマルクはドイツ帝国宰相として、産業の育成と軍備を拡張する鉄血政策をとり、軍事力による独裁的な権力をふるった。
- ビスマルクは、フランスを孤立させてドイツの安定をはかるため、オーストリア、ロシアと三帝同盟を結んだ。しかし、2国が対立したため、イタリア、オーストリアと三国同盟を締結し、国際秩序の再構築を目指した。
ではまた、ごきげんよう。