中国・江南地区で南宋文化が栄えた頃、モンゴルではチンギス=ハンがモンゴル族を統一した。
そのモンゴルについて、「モンゴル帝国の拡大」、「モンゴル帝国のはじまり」、「国号を元に」、「モンゴル軍の強さ」を学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- モンゴル帝国の拡大
- モンゴル帝国のはじまり
- 国号を元に
- モンゴル軍の強さ
年表
いつ | できごと |
---|---|
1206年 | チムジン、モンゴル諸部族統一。チンギス=ハンと称す |
1234年 | オゴタイ=ハンが中国華北地方の金を征服する |
1236年 | バトゥのヨーロッパ遠征がはじまる |
1241年 | ワールシュタットの戦いでモンゴル軍が勝利 |
1258年 | フラグが西アジア遠征、アッバース朝を滅ぼす |
1231年~ | モンゴル帝国が朝鮮半島の高麗に遠征 |
1271年 | フビライ=ハンが国号を元に。首都は大都(北京) |
モンゴル帝国の拡大
チンギス=ハンがモンゴル族を統一し、中央アジアまで判図をひろげた。
次いで2代・オゴタイが東アジアを広く支配していた金を征服。
一族のバトゥもヨーロッパへ遠征し、モンゴル軍の強さにヨーロッパの人々は震え上がった。
その後も4代・モンケの時代に西アジアのほか、チベットやイスラーム帝国まで侵攻。
5代・フビライが国の名前を元として皇帝となる頃には、東西交易の主要ルートを手中に収め、世界経済を握る大帝国に成長した。
モンゴル帝国のはじまり
チンギス=ハンはモンゴルの周辺国を次々に侵略した。
アジアとヨーロッパを結ぶ陸上ルートの真ん中に位置する遊牧国家・ナイマンと西夏を征服し、海へ通じるホライズム=シャー朝も抑えて海上ルートも確保した。
東西にわたる水陸交易ネットワークを築いた。
国号を元に
フビライ=ハンは首都をモンゴルのカラコルムから中都(のち大都に改名、現在の北京)へ移し、国号を元とした。
宗主国である元と、3ハン国(キャプチャク・チャガタイ・イル)の間や一族の間で抗争はあったが、モンゴル帝国として広くユーラシア大陸を統治した。
モンゴル軍の強さ
モンゴル軍の強さの秘密は以下の3点があげられる。
・チーム戦の徹底
遊牧民を1000人チームで管理。
軍規も厳しく、違反すれば死刑だった。
・馬の最大活用
モンゴル馬は持久力抜群。
皮・骨・毛も服や武器に、血や肉は食糧にもなった
・情報ネットワーク
東西ネットワークを活かしムスリム商人から情報・資金を得ていた。
まとめ
今回の内容をまとめると
- チンギス=ハンがモンゴル族を統一し、中央アジアまで判図をひろげた。また一族が東アジア、西アジア、ヨーロッパを征服した。
- 5代・フビライが国の名前を元として東西交易の主要ルートを手中に収め、世界経済を握る大帝国に成長。
- 宗主国である元と、3ハン国(キャプチャク・チャガタイ・イル)間や一族間で抗争はあったが、モンゴル帝国として広くユーラシア大陸を統治した。
- モンゴル軍の強さは、チーム戦の徹底、馬の最大活用、東西ネットワークによる情報とされている
ではまた、ごきげんよう。