坂本龍馬の説得のもと長州藩と薩摩藩の間で薩長同盟が成立し、いよいよ倒幕が進みついに大政奉還が実行される。
これにより江戸幕府が終焉を迎えることになる。
そんな大政奉還について「大政奉還とはなんだったのか」が気になる。
また、「薩長同盟の意義とは」「薩長はどのような連携をしたいのか」「討幕派と江戸幕府の戦い」についても学んでいきたい。
そこで、今回の内容はこちら
- 薩長同盟の意義とは
- 薩長の連携
- 討幕派と江戸幕府の戦い
- 大政奉還とは
年表
いつ | できごと |
---|---|
1866年 | 薩長同盟が締結され倒幕に向かって時代が動き出す |
1867年8月 | 民衆の間で熱狂的乱舞「ええじゃないか」がはじまる |
1867年10月 | 岩倉具視らの暗躍で、長州藩と薩摩藩に倒幕の密勅が下る |
1867年10月 | 15代・慶喜が大政奉還を受け入れ、朝廷に政権を返上する |
1867年11月 | 坂本竜馬と中岡慎太郎が京の近江屋で暗殺される |
1867年12月 | 王政復古の大号令が出され、徳川家から権力が剝奪される |
1868年 | 大坂城にいた旧幕府軍が、京に向けて進軍を開始する |
薩長同盟の意義とは
長州藩と薩摩藩は、八月十八日の政変、禁門の変などで敵同士として戦ってきた。
坂本龍馬が2藩を説得。
まずは和睦のために、薩摩藩は長州藩に武器を輸出。
長州藩は薩摩藩に下関での兵糧の購入を許可した。
そして改めて、幕府と長州藩との戦いが起こった場合、薩摩藩は長州藩に味方することを約束。
これまでの遺恨を捨て、日本のために力を尽くし、協力することを決めた。
薩長の連携
1866年、幕府は長州藩に向けて進軍を開始(第二次長州戦争)。
長州藩は兵力で劣っていたものの、最新鋭の武器を手に抵抗した。
そして、同盟を締結していた薩摩藩は幕府の徴兵令を拒否した。
幕府軍は足並みがそろわない中、攻撃停止の勅令が下り、実質的に幕府軍が敗北した。
討幕派と江戸幕府の戦い
討幕派は朝廷から「倒幕の密勅」を得て幕府を攻撃しようとした。
密勅を出すには細かな手続きが必要なため、この時出された密勅は偽物だったとも言われている。
大政奉還とは
討幕派の攻撃を回避するために幕府側がとった方法が、政権を朝廷に返す「大政奉還」だった。
これにより江戸幕府の政権は終焉を迎える。
しかし、政権を返しても、徳川家が権力をもったままだった。
そこで討幕派は「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を宣言した。
そして、小御所会議を開き、徳川家から官位と領地を没収することを決め、徳川家から政権を奪い取った。
まとめ
今回の内容をまとめると
- 薩長同盟の意義は、敵同士として戦ってきた長州藩と薩摩藩を坂本龍馬が説得し、これまでの遺恨を捨て、日本のために力を尽くし、協力することを決めたこと。
- 幕府が長州藩に向けて進軍を開始(第二次長州戦争)した際、薩長は連携し、長州藩は薩摩藩から得た最新鋭の武器で抵抗し、薩摩藩は幕府の徴兵令を拒否したことにより幕府軍が敗北させた。
- 討幕派と江戸幕府の対立は薩長同盟により加速し、討幕派は朝廷から「倒幕の密勅」を得て幕府を攻撃しようとした。
- 討幕派の攻撃を回避するため、幕府は政権を朝廷に返す「大政奉還」を実行しし、江戸幕府の政権は終焉を迎えるが、徳川家が権力をもったままだった。
討幕派は「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を宣言。徳川家から官位と領地を没収し、徳川家から政権をはく奪した。
ではまた、ごきげんよう。