古墳時代から飛鳥時代までの大まかな流れ
日本を形成する組織や制度が整備され、この頃日本に仏教が伝来してどんどん国家が形成されていく。有名な聖徳太子が何をした人かすらっと言えない人もここで振り返ろう。小野妹子が男の人で、遣隋使ということはは押さえておきたい。
ポイント
- ヤマト政権の体制や支配
- 仏教が日本にきたのはいつ
- 聖徳太子はどんな人で何をした
- 飛鳥時代とは
- 小野妹子は男の人
- 遣隋使の目的
年表
いつ | できごと |
---|---|
527年 | 反乱を起こした筑紫の磐井氏が物部麁鹿火に鎮圧される |
538年 | 大陸から日本に仏教が伝わる(552年説もあり) |
587年 | 仏教をめぐり蘇我馬子と物部守屋が争う(丁未の乱) |
593年 | 推古天皇が即位、聖徳太子(厩戸王)が摂政となる |
603年 | 冠位十二階が制定される |
604年 | 憲法十七条が制定される |
607年 | 小野妹子らを隋に派遣 「日出処王子」の国書を隋に送る |
おもな人物
氏姓制度
6世紀頃、ヤマト政権の組織が整い始めた。大王(天皇)を頂点とし、一族でまとまった豪族たち(氏 うじ)に位(姓 かばね)を与えて管理した。中央の豪族には臣(おみ)・連(むらじ)、地方の豪族には君(きみ)・直(あたい)・首(おびと)が与えられた。特に有力豪族の蘇我氏・物部氏・大伴氏は、大臣・大連などの高い地位につき、経済・外交担当、軍事・裁判担当の役割を持った。
地方支配
ヤマト政権は地方支配を強めるため、各地に直轄地を置き、その地方の豪族に国造(くにのみやつこ)などの地位を与えて、その地方の支配を認めた。
そのころ、ヤマト政権の朝鮮半島の拠点・加耶が、新羅に奪われつつあり、継体天皇は加耶復興のために軍を送る。しかし、新羅と密約を交わしてた筑紫国(福岡県)の磐井氏が新羅に加担してこれを妨害した。ヤマト政権は大連の物部麁鹿火(もののべあらかび)を派遣してこれを制圧し、さらに地方支配を強化した。
移ってヤマト政権になった。2019年に大分県で発見された鏡が魏の鏡とそっくりである。
飛鳥時代
6世紀末に、政治の中心が飛鳥(奈良県)に移り、飛鳥時代となる。この頃、仏教推進派の蘇我氏と反対派の物部氏が対立、587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。その後、推古天皇が即位し、聖徳太子(厩戸王)とともに新しい国家体制づくりを進めた。
仏教について
日本への伝来
日本に伝わったのは、飛鳥時代の538年か552年といわれる。百済の聖明王が欽明天皇に、金色に輝く仏像や経典を献上したことにはじまる。百済は高句麗に軍事的圧力をかけられ、日本に助けを求める見返りとして仏教を伝えたと言われている。その後、仏教には国を守護し安定させる力があると考えた聖武天皇によって、全国に広められた。
仏教はいつできた
紀元前450年頃、現在のインドでガウタマ・シッダールタ(釈迦)によって仏教が起こり、釈迦が亡くなった約500年後、インドのガンダーラではじめて仏像がつくられる。当時はギリシアやローマの影響が大きく、仏像の顔も彫が深く、鼻も高いヨーロッパ人風だった。やがて仏像はシルクロードを経由して中国に伝わる。そのため、シルクロードの道中には石窟寺院(洞窟を掘ってつくられた寺)が残されている。そして朝鮮半島を経て日本に伝わる。
仏教の教えの変化
そもそもの釈迦の教え(紀元前450年頃)
空腹や病気になったり、人生は思い通りにならないことばかり。でも、悟りを開けばさまざまな苦しみから逃れられる。そのために修行が必要。
上座部仏教
仏教の教えのうち「生き物を殺してはいけない」、「お酒を飲んではいけない」などの厳しい戒律を守り、出家して修行を積むことで悟りに達することができるというもの。東南アジアでは上座部仏教を信じる人の方が多く、仏教国として有名なタイやミャンマーでは、今も男子は一定期間出家してお坊さんになる伝統がある。
大乗仏教
上座部仏教と同じ仏教の考え方のひとつ。大乗とは「大きな乗り物」という意味。釈迦の教えをたくさんの人に広めれば、出家しなくても誰でも悟れると説き、自分のことより人々の救済を優先し、あらゆる人々の救いを目指す。大乗仏教は、北方を経由しガンダーラ・チベット・中国・モンゴル・朝鮮半島・日本に伝わった。
遣隋使
聖徳太子は、中国大陸の隋に遣隋使を派遣し、さまざまな制度や技術を取り入れた。そして位階制度の「冠位十二階」や役人の心構えを示した「憲法十七条」を定め、仏教を取り入れるなど改革を行った。
あとがき
日本史の流れを大まかに学ぶことで、人物名や年号を覚えることでどこかつまらないと感じていた歴史をもっと楽しく学べると思う。
ではまた、ごきげんよう。