不平士族の反乱 西南戦争をわかりやすく 楽しい日本史 -近代国家への道-

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さまざまな明治政府の改革が進む中、政府内では内治派と征韓派で対立が起こり、征韓派だった西郷隆盛を筆頭に西南戦争を起こした。

そんな西南戦争について「どのような戦争だったのか?」が気になる。

また、「内治派と征韓派」「四民平等」「取り残される武士の不満」「最後の内戦となった西南戦争」についても学んでいきたい。

そこで、今回の内容はこちら

  • 内治派と征韓派
  • 四民平等
  • 取り残される武士の不満
  • 最後の内戦となった西南戦争
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年表

いつできごと
1871年岩倉使節団が、アメリカ、ヨーロッパに向けて出発
1873年明治六年の政変が起こり、征韓派の西郷隆盛が下野
1874月江藤新平ら士族が新政府に対し佐賀の乱を起こす
1876年秩禄処分、廃刀令が出され、士族たちから権力がはく奪される
1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など、士族が反乱を起こす
1877年西郷隆盛が挙兵、不平士族と政府の間で西南戦争が起こる
1878年紀尾井坂の変で、西郷と対立した大久保利通が暗殺される
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内治派と征韓派

大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らはアメリカからヨーロッパ諸国を外遊して、欧米の進んだ文明を目の当たりにした。

海外を見てきた彼らは、無暗に海外の情勢に関わらず、まずは殖産興業に力を入れるなど、国内の経済や軍備を整えるべきと考える内治派(外遊組)となった。

一方、西郷隆盛らを中心として朝鮮半島に対して開国の説得を行い、交渉が決裂した場合は、武力を用いて戦争によって開国すべきと訴える征韓派に分かれた。

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四民平等

江戸時代には、士農工商という身分制度があったが、明治政府はこの身分制度を廃止して、天皇を最高権力者としてそのほかの身分を平等とした(四民平等)

しかし、実際には古い身分制度での区別や差別意識は人びとの間に残っていた。

四民平等となっても、おおきく華族、士族、平民に分かれていた。

華族は公家、大名など特権的身分。
士族は江戸時代に武士だった人びと。
平民は農工商の3つの身分の人びとは平民とされた。

取り残される武士の不満

士族とされた武士たちは、四民平等により身分のはく奪され、秩禄処分により給料の支払いを国が代わりに行うようになったが、打ち切りになった。

また、廃刀令により士族の帯刀を廃止され、これまでの権利を奪われる形となった。

商売をやろうにも失敗したり、兵士も平民で構成され、刀も奪われた武士には出る幕がなくなった。

そうした中で少しずつ士族たちの不満が募っていった

最後の内戦となった西南戦争

征韓論をとなえた西郷隆盛や板垣退助らが、内治派の大久保利通や木戸孝允に敗北し、政府をさることになった(明治六年の政変)

下野した西郷隆盛は不平士族の現状に触れることになった。

不平士族たちは各地で反乱を起こすようになり、西郷隆盛は弟子たちに頼られた結果、挙兵せざるを得なくなり、明治政府と戦うことになってしまう(西南戦争)

最終的に、西郷隆盛は政府軍に追い詰められて自害した。

まとめ

今回の内容をまとめると

  • 無暗に海外の情勢に関わらず、殖産興業、国内経済や軍備を整えるべきと考える内治派、西郷隆盛らを中心として朝鮮半島に対して開国交渉を行うべきと訴える征韓派に分かれた。
  • 天皇を最高権力者としてそのほかの身分を平等とする四民平等だが、古い身分制度での区別や差別意識は人びとの間に残っていた。
  • 士族とされた武士たちは、四民平等、秩禄処分、廃刀令によりこれまでの権利を奪われ、少しずつ不満が募っていった。
  • 明治六年の政変により下野した西郷隆盛は、不平士族に触れ弟子たちに頼られた結果、挙兵せざるを得なくなり、明治政府と対立する西南戦争を起こす。


ではまた、ごきげんよう。

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